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『日本人にリベラリズムは必要ない。 田中英道』(リベラルは「隠れマルクス主義」、「経済破壊」から「文化破壊」へシフト、「フランクフルト学派」の正体、文化闘争の新兵器 「批判理論」、「ポリティカル・コレクトネス」に苦しむアメリカ社会、リベラルの得意技は“言葉狩り”)

『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』
『日本人にリベラリズムは必要ない。 田中英道』

ナショナリズムの勝利というべきアメリカのトランプ現象、そこには「リベラリズム」の後退があった。新刊『日本人にリベラリズムは必要ない。』を上梓した、田中英道氏が昨今の世界情勢を読み解くキーワード「リベラル」を、その語義から解きほぐす。

◆「リベラリズム」は駄目な思想である!

“西洋の思想”をありがたがるな!
「リベラル」「リベラリズム」とは何か…?
「マルクス経済学」(社会主義)から、フランクフルト学派「批判理論」、フロイト「エディプスコンプレックス」、丸山眞男の日本論「古層」まで、リベラルの欺瞞と危険性を暴く!「知の巨人」による思想論。

● 20世紀におけるマルクス主義の経典『獄中ノート』
● リベラルの得意技は“言葉狩り"
● 「生まれながらにして不幸」というフロイトの人間観
● OSS(戦略情報局)による「日本計画」
● 天皇を利用した後に葬る「二段階革命」
● マルキシズムに利用されているアダム・スミスの思想
● 「日本思想」をとらえ損なった丸山学
● 「民主主義」の名で展開された「社会主義」
● 誇りを持って自らの文化に生きる幸せ etc.


 まえがき ―― 「リベラル」は考え方自体が間違っている
 現代の「リベラル」およびその主張である「リベラリズム」は、一刻も早く根絶やしにされるべきだと私は考えています。その理由を、わかりやすく解説することに務めた結果が本書です。特に日本において、リベラルおよびリベラリズムは、その存在そのものがまずありえないということも理論的に解説しました。
 批判ばかりで無責任、善人ぶるなど、リベラルのやり方・考え方にうんざりしている人は今、日本に限らず世界にもたいへん多い。アメリカのトランプ現象はその好例と言えるでしょう。
 しかし、それでもなお、「リベラルの言うことにも一理ある」 「リベラルも確かにいいことは言っている」などと考える心優しい人も多いようです。
 また、「自由を前提としているのだからリベラル自体は間違っていない」とつい私たちは考えがちですが、それは違います。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 まえがき - 「リベラル」は考え方自体が間違っている

 怠慢さや傲慢さが問題ならばそこを直せばいいだけの話ですが、リベラルは考えか自体が間違っているのです。

〈第一章 「リベラリズム」は駄目な思想である〉をお読みいただき、明日からは自信をもってリベラルを無視していただきたいと思います。
〈第二章 それでも日本に「リベラル」が生き残る理由〉では、リベラル勢力がなぜ日本国憲法、特に九条の改正を頑なに拒否するのかについて解説しました。 「九条で謳っている平和ということを、体制への対抗イデオロギー、または体制へのいいがかりの種にしている」というようなことではありません。九条はリベラルにとって実利があります。いくら批判され、場合によっては軽蔑されようとも、リベラルが日本から消えてなくならずに堂々と恥をさらしていられる理由は、実にこの条文にあるのです。
 また、「リベラルには国家観がない」「リベラルは国を守ろうとしない亡国の勢力だ」とよく言われます。 しかし、この批判の裏には「愛国的リベラルなら認めることもできる」「外国のリベラルには愛国心がある」という留保が隠されています。この考え方も間違っています。リベラリズムはその理論の根幹に“国家の破壊”があります。
 なぜリベラリズムが思想のおおもとに「国家破壊」を持つ必要があるのか――、その理由も、第一章と第二章を読めばおわかりいただけるでしょう。
〈第三章 美術、小説、映画、音楽……なぜ今の芸術は「反体制」「反権力」をありがたがるのか〉では、リベラルおよびリベラリズムが、戦後の芸術やカルチャーと呼ばれるもの全般 (音楽を含むエンターテインメント)の前提となってしまった経緯、背景、深層について解説しています。
 いわゆる進歩的知識人・文化人、またクリエイターと呼ばれる人々が、今でもリベラリズムに簡単に釣られてしまう、その浅はかさは、日本文化にとって深刻な“危機”を呼んでいると思います。
 リベラルおよびリベラリズムに対して、 譲歩する余地はまったくありません。リベラルとリベラリズムは、あたかも、いわゆる人間らしくあることに敏感で、普遍的で理想的な人間の幸福を追求する人々および思想のように見えますが、それらとはまったく関係がありません。
 リベラルの言う“理想的な人間の幸福” など実現不可能だからリベラルは駄目だ、というのではありません。それを理由に駄目だということは、リベラルの言う「理想」についてはOKだと言っているのと同じです。こういったことに気づかないところを見ても、私たちは今、完全にリベラルおよびリベラリズムに呪縛されています。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 怠慢さや傲慢さが問題ならばそこを直せばいいだけの話ですが、リベラルは考えか 自体が間違っているのです。

〈第四章「リベラリズム」の呪縛から解かれるために〉では、リベラルとリベラリズムを排除することがなぜ日本にとって良いのか、国際情勢の安定に良いのか、人間にとって良いのかについて述べました。
 これらのことを知ることが、リベラルとリベラリズムに対してわずかながらでも持ち続けているある種の“期待”といったもの、 “譲歩”といったものを拭い去る、いちばん良い方法です。

 リベラルとリベラリズムの問題は、 「思想は思想としてそれぞれ認め合うべきだ」という考え方の範疇ではなく、“病”に対するに近い重篤な問題です。リベラルとリベラリズムは、その思想そのもの、考え方そのものが駄目なのです。
 本書でその理由を、思想、哲学、宗教、歴史、芸術等の視点から明らかにしていきたいと思います。
田中英道
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』


『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 目次

『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 目次

『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 目次

『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 目次

『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 目次

序章●「アンチ・リベラル」に舵を切った国際社会
「リベラル」――、まず用語を整理する
 基本的に「リベラル」という言葉は「自由(自由人)」を意味していて、たいへん良い意味のように聞こえます。しかし、リベラルの由来をたどっていくと、かなり古くて良い思想の歴史があり、(後に詳しく触れますが)時代によってその中身に変遷があるのです。
 今のリベラルは、物事を常に批判的に見るところに大きな特徴があります。 現在自分が所属している組織や共同体は批判されて当然だと考え、そこからの自由を目指す人々のことをリベラルと呼んで間違いないでしょう。 自由という言葉が何を意味しているかについても、次章以降で詳しく触れます。
 リベラルにはかつて、「左翼リベラル」と呼ばれていた時代があります。 左翼リベラルという呼び名はきわめて的確でした。18世紀の思想家カール・マルクス (1818~83年)が打ち立てた”革命思想”にもとづいて、プロレタリアート (労働者階級)蜂起による共産主義革命を目指す政治運動と密接に結びついていたからです。
 ところが、「マルクス・レーニン主義」を掲げて1922年に建国されたソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が1991年12月に崩壊します。 「プロレタリアート蜂起による共産主義革命国家の存続は不可能である」ということが、具体的に証明された瞬間でした。
 左翼リベラルの「左翼」の部分が根拠を失い、解体したのです。今も相変わらずプロレタリアート革命にこだわる団体、メディアは存在してはいますが、彼らは当然この失敗を認識していて、旧来の革命思想に自信を失っています。自分たちが左翼と呼ばれることを今のリベラルが嫌がる理由のひとつです。
 左翼と呼ばれることをリベラルは嫌がりますが、ここには大きな欺瞞があります。なぜなら、リベラルのグランド・セオリー (すべての領域に適用される考え方・理論)は、相変わらずマルクス主義思想だからです。
「資本主義が成熟すると必ず矛盾が生まれ、社会主義を経て共産主義の理想に至る」という考え方は何も変わっておらず、そこに至るための方法はやはり“革命”です。革命とは、「既存の体制、社会を破壊する」ことを言います。だからリベラルにとっては、革命の中の、プロレタリアート革命というひとつの方法が不可能となっただけの話です。
 一方で、自分はマルクス主義者ではないと思っているために、左翼と呼ばれることを嫌がるリベラルも存在します。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「リベラル」、まず用語を整理する

 しかしそれは、勉強不足などいろいろな理由から自分自身だけのことに過ぎません。 端的に言えば、無知な人たちです。

リベラルは「隠れマルクス主義」だ
 プロレタリアート革命は不可能であるという事実から、「左翼」という言葉のとれた、または左翼という言葉を意識的にはずしたリベラルは、自らの思想からマルクス主義という立場を隠し始めました。なぜならマルクス主義は、不可能が証明されたプロレタリアート革命を理論に含んでいるために矛盾を起こすからです。
 また、「自分自身はマルクス主義者ではない」と思っているリベラルはそれを知らずに、あたかも中立であるかのように振る舞っている“リベラル”という言葉にごまかされて自称しているだけのことに過ぎません。
 ずばり、リベラルは「隠れマルクス主義者」です。 「偽装された左翼」と言ってもいいでしょう。
 ソ連崩壊で明らかになったように、事実上不可能となったプロレタリアート革命に代替する革命の方法をリベラルは模索しました。 その模索の結果として何が出てきたかといえば、たとえば「フェミニズム(男女同権論、女権拡張論)」がそうですし、「ジェンダー・フリー(社会的性別からの解放)がそうですし、「カルチュラル・スタディーズ(多種多様な文化的行動を主に権力との関係から研究する学問および政治的批判・運動)」や「多文化主義(異なる文化を持つ集団は対等な立場で扱われなければならないとする思想および政策)」などがそうです。
 リベラルは、マルクスの言う資本主義に生じる矛盾の結果を、すでに否定されたプロレタリアートの「必然的貧困」ではなく、「人間疎外」に変換していったのです。この「疎外」もまた、マルクスの哲学用語として、1970年代、進歩的知識人と呼ばれた人々の間でずいぶん流行った言葉です。
「出世ができない」「やりたいことができない」という個人的な不満から「国が支援してくれない」「福祉が十分ではない」という国家に対する不満まで、普通の社会に生きていれば皆、そういう疎外感を持つのはあたりまえです。リベラルはそれを利用します。
「今は疎外されているけれど未来は良くなる」「将来、人々が完全に満たされる社会になる」という幻想を人々に与え、 現在の共同体や社会、国家のありかたを批判し、否定します。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 リベラルは「隠れマルクス主義」だ

 ここでひとつ注意しておきたいのは、「批判」という言葉です。私たちは「批判されるのは、批判される側に問題があるからだ」と考えがちです。しかし、リベラルにとって重要なのは、その問題ではなく、批判する行為そのものなのです。リベラルには「批判理論」という、批判すること自体が意味と意義を持つ理論がちゃんとあります。
 批判理論についても次章以降で詳しく触れますが、 「批判ばかりで対案が何もないではないか」「批判するがための批判ではないか」といった苦言がリベラルにはまったく届かない理由はまさにここにあるのです。

“革命” のターゲットを「経済」から「文化」 へシフト
 リベラルとはつまり、プロレタリアート革命に では方法としてあきらめたに過ぎない 「革命家」のことを言います。依然、その理想は「共産主義」であり、その前段階としての資本主義下での「社会主義」を、今より良い社会体制だと考えます。
 マルクス主義は、「共産主義は資本主義の矛盾から起こる必然的な経済体制の破壊行動、つまり革命で実現する」と考えます。しかし、ソ連崩壊という事実はもちろん、資本主義が最も進んでいるといわれるイギリスに てさえプロレタリアート革命が起こる気配がないことでも、理論として破綻しています。そこで隠れマルクス主義者であるリベラルは、革命に至るための変革対象あるいは破壊対象としては「経済」を見放すことにしました。
 リベラルは経済の代わりになる破壊対象を模索しました。 そして目をつけたものこそ、「文化」でした。 フェミニズム、ジェンダー・フリー、カルチュラル・スタディーズ、多文化主義などを通して、リベラルが文化のもととなる「伝統」に対して否定的な立場をとり、伝統の破壊”に走るのはこれが理由です。
 同時に、保守勢力がいくらマルクス主義を批判したところで、批判の矢がリベラルに届かない理由もここにあります。文字通りのマルクス主義は、すでにリベラル自らの手で無効化されているのですから当然です。
 私はこのことについては、保守勢力のほうに大いに反省すべき点があると思います。たとえ文化が社会的に、政治的に重要な役割を果たすかということがわかっていたとしても、「文化とは何か」ということ自体がわかっていないからです。
 日教組の教育を受けたからでしょうが、保守勢力の中にさえ「いまさら『万葉集』でもないだろう」と考えている人がいます。そのような人には『万葉集』などを読み返して熟読し、「自分を先祖返りさせて伝統の確認をしよう」という気持ちがほとんどありません。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 “革命” のターゲットを「経済」から「文化」 へシフト

 したがって、リベラルに文化批判を仕掛けられても、反論のすべがなく、お手上げの状態になってしまうのです。 また、リベラルが文化に対する批判を意図的に集中してやってきた意味を理解できずに放置してきたために、今や修復不可能と思われるほどに、伝統と文化は破壊されてしまいました。
 以前は保守系の雑誌には学者・研究者による硬い論文が掲載され、「日本の文化」がしっかり語られていましたが、それも今は少なくなってきています。 「伝統と文化の復活」を強く認識するということがなくなり、いつのまにか、すべてが“文化革命”状態になっているのです。

 2016年のドナルド・トランプのアメリカ大統領選挙当選、同年の「BREXIT」と呼ばれるイギリスのEU脱退は、実にこういったことを背景としています。
 また、マスコミが盛んにゴルフ外交と報じた2017年2月の安倍晋三首相に対するトランプ大統領の厚遇も無関係ではありません。
 ようやく、国際社会はリベラルに「NO」と言い始めたのです。

ドナルド・トランプはなぜ勝ったか
 ここで、先の米大統領選をあらためて考察したいと思います。
 まず、「トランプ勝利の背景には、ヘンリー・キッシンジャーの支持があった」と、私は考えています。
 キッシンジャーは1923年にユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれ、その後、ナチス・ドイツの反ユダヤ人政策に反対する一家とともにアメリカ合衆国に移住し、1943年に帰化しました。国際政治学者であり、リチャード・ニクソン政権 (1969~74年)の国家安全保障問題担当大統領補佐官、ジェラルド・R・フォード政権(1974~77年)の国務長官、また、ベトナム戦争の和平交渉を理由とするノーベル平和賞受賞者として知られています。
 平成28年(2016) 12月27日付の読売新聞朝刊に、《「国益」他国に配慮してこそ》というタイトルで、トランプ大統領誕生についてのキッシンジャーの談話が掲載されました。キッシンジャーはその中でこう述べています。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 ドナルド・トランプはなぜ勝ったか

《トランプ大統領の誕生は、とてつもない現象だ。米国史上、このような大統領が生まれたことは、いまだかつてなく、彼の勝利を真剣に受け止めなければならない》
《彼は極めて高い政治的資質を示してきた。 特定の団体に何のしがらみもない。傑出した大統領になるまたとない好機で、これを前向きにとらえ彼にはチャンスを与えるべきだ》
 キッシンジャーがトランプを支持していたことがよくわかる記事です。 2016年5月にトランプはキッシンジャーと会談していますが、同時期に共和党候補として名前が挙がっていたテッド・クルーズやポール・ライアンが撤退しています。 キッシンジャーがトランプを支持したことによって、共和党の有力者が口を出せなくなり、トランプに一本化されたということで間違いないでしょう。
 そして、トランプ当選を決定的にしたのはおそらく同年9月の、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相との会談です。トランプはその席で、《大統領に選出された場合、エルサレムをイスラエルの「不可分の」首都と認めると約束した》と報道されました。
 私がこれまでずっと言ってきたことですが、結局、アメリカ国内のユダヤの分裂がトランプを勝たせたのです。

米大統領選の明暗を分けた「ユダヤの分裂」
 アメリカにおける「ユダヤの分裂」――。 それは、「イスラエル・ユダヤ」と「グローバリゼーション・ユダヤ」との分裂です。島国のほぼ単一民族である日本人にはなかなか理解しにくいことですが、 世界情勢や思想状況を考えるうえで、ユダヤ人独特の強い「孤立意識」「被害者意識」はもっと重要視されるべきだと私は思います。
 ユダヤ人は少数派であり、『旧約聖書』に記述されている迫害から始まる、西欧民族に長く圧迫された歴史を持っています。リベラル思想は一見、国家や権力に媚びない自由を主旨とする、世界に共通する普遍的な思想のように見えます。が、実は媚びないということではなく、それとは逆に、国家や権力を持てないことからくる 「ユダヤ人の自己防衛のための思想」に他ならない、という側面を持っています。
 アメリカのユダヤ勢力の大多数を占めるいわゆる左派ユダヤは、アメリカ民主党政権や国連に入り込みました。アメリカの言論界、経済界のリベラル化につとめ、メディアを握り、反権威主義を煽って、多文化主義からグローバリズムまで提唱しました。経済に関しては、自由主義を主張するネオコン (新保守主義)、つまり共和党内部にも入り込みました。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 米大統領選の明暗を分けた「ユダヤの分裂」

 少数派が多数派の顔をすることができれば、アメリカは民主主義国家ですから、選挙に勝てるだけの世論を形成できます。左派ユダヤは、初の黒人系大統領バラク・オバマを誕生させましたが、問題はイスラエルでした。
 巨額の資金を必要とするイスラエルに資金を調達するためには、米政権が「親イスラエル」である必要があります。 オバマの対立候補、共和党のミット・ロムニーがその役割を負うはずでしたが、左派ユダヤの多数派はロムニーを冷ややかに見て、結局、オバマ政権が誕生します。 ここで、アメリカの中の、イスラエル・ユダヤとグローバリゼーション・ユダヤとの分裂は決定的になりました。
 第二次世界大戦後のイスラエルの運営資金は、ユダヤ勢力がウォール街を握ることによって維持されてきたと言ってよいでしょう。しかし、ユダヤ勢力によってつくられた国際金融の変動が、2008年のリーマン・ショック以降はさすがにひどすぎると、伝統的なアメリカ人に思われ始めたのです。 アメリカの「脱イスラエル路線」はオバマ政権期から始まり、そのままオバマの任期終了を迎えました。
 グローバリゼーション・ユダヤは、ウォール街と癒着しているヒラリー・クリントンを支持しました。しかしトランプは、キッシンジャーが言ったように、特定の団体に何のしがらみもない候補です。
 イスラエルのネタニヤフ首相との会談で、トランプは「イスラエル・ユダヤの側に立つ」ことを宣言したと言っていいでしょう。これは、キッシンジャーの世界秩序分析を参考にしたものだと私は思います。つまり、「グローバリゼーション・ユダヤがやってきたことは失敗だった――」という分析です。

大失敗だった「グローバリズム」
 平成27年(2015) 1月3日付の読売新聞朝刊に、《「語る戦後70年――日本の役割熟慮の時」》という特集の第1回目として、キッシンジャーへのインタビュー記事が掲載されました。その中でキッシンジャーはこう述べています。
《アメリカはこれまで、他国の政府を自分たちが作り変えられると信じてきた。だが現在そうした時代から脱却しつつある。我々は、日本とドイツの占領の経験を誤って分析していた。アメリカが日本を作り直したのではない。日本自身が自らの伝統的な価値観の中で、新たな状況、国際秩序に適応したのだ》
《日本は、アメリカ中心のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の権威を利用し、自らの力で国家の現代化を進め、復興を急いだ。こうした新たな環境への適応が、今やアジアの安定と、世界の平和と繁栄の基礎となったと言える》
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 大失敗だった「グローバリズム」

 キッシンジャーは、「第二次大戦後のアメリカ支配は錯覚に過ぎず、その錯覚は正されるべきだ」と言っているのです。 これはつまり、「アメリカの名を借りた、グローバリゼーション・ユダヤの世界支配の錯覚は終わりを告げた」ということに他なりません。
 トランプの勝利は、アメリカのユダヤ勢力が完全に方向転換したことを示しています。説得されたのか、自ら転換したのかどうかは別にしても、グローバリゼーション・ユダヤはイスラエル・ユダヤに方向転換しました。 「グローバリズム」を標榜していたアメリカのユダヤ勢力が、 「ナショナリズム」に舵を切ったのです。
 トランプは米国民に対しては 「アメリカ一国主義」を謳い、ユダヤ勢力に対しては「イスラエル一国主義を支持する」と宣言して大統領選に勝ちました。
「トランプが当選後初めて会談した外国人首脳がなぜ日本の安倍首相だったのか」――、 その理由もこの一国主義ということにあると私は思います。

安倍首相を高く評価しているトランプ大統領
 平成28年(2016) 11月17日、安倍首相は、当選後初めて会談する外国人首脳としてトランプを訪問しました。平成29年2月11日には、アメリカ・フロリダ州にあるトランプ所有のゴルフコースを2か所ハシゴしています。 計27ホールをラウンドした内、最後の9ホールは2人のみでラウンドしたと言います。様々な点から、破格の厚遇だったと各メディアは報道しました。
 トランプには、安倍首相のことが「一国主義の先駆者」に見えるのだと私は思います。だから、トランプは安倍首相に最初に会い、厚遇したのです。
 私もまた、安倍首相の先駆性を評価する一人ですが、外から見ると、安倍首相はかなり以前からナショナリズムを貫いてきたように見えるのです。だからこそ、リベラル・メディアの代表であるニューヨーク・タイムズなどは一貫して安倍首相を「右翼」と表現して否定的に報じていましたし、 「ナショナリスト(国粋主義者。英語圏では良い意味には使われない。いわゆる愛国者はpatriotと表現される)」と言って批判を重ねてきました。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 安倍首相を高く評価しているトランプ大統領

 自身で意識しているかどうかはわかりませんが、安倍首相はその家柄からなのか伝統文化をしっかりと身につけている人だと私は思います。ただ、それをあまり論理的には語りません。その思想を論理にして発信する、またはそれができる側近がいないと言うこともできます。だから、安倍首相は政治的感覚に頼って行動のみに励んでいるように見えるのでしょう。
 平成28年5月26日と27日の2日間、安倍首相は伊勢志摩で第2回先進国首脳会議(G7)を開催しました。そして、G7の首脳を伊勢神宮に案内しています。
 こういう発想は、政府内の周囲の人間にはありません。 安倍首相は政権成立の1年後に靖國神社に参拝していますし、8月15日のいわゆる終戦記念日には玉串料奉納を欠かさずに行っています。
 日本には天皇という伝統の存在があり、総理大臣という任は天皇から認証されるものだという文化を安倍首相はよくわかっているのです。しかし、マスコミと摩擦を起こさないようにということだと思いますが、周囲はそのような安倍首相をあまり擁護しませんし、保守言論界もまた、安倍首相のプランをちゃんと理論化して支持することが少ないのです。 安倍首相の行動と周囲の言論が一種の齟齬を起こしていて、日本国内では何かこう、不必要にあいまいな首相にされてしまっています。
「天照大神を祀っている場所でG7サミットを行う」という意味を、保守勢力もよくわかっていません。 マスコミはマスコミで(残念ながら外務省もそうですが)、一般報道では、伊勢神宮あるいは神宮の森が映る映像や写真を避け、英虞湾を背景にしたものばかりを出しました。
 しかしG7の首脳は、確かに伊勢神宮に足を運んでいるのです。 安倍首相は「伊勢神宮にこそ日本の本当の風景がある」ということを世界に示したわけです。そういうところをトランプはしっかり見ていたのだと思います。

ファシズムなきナショナリスト
 前述したように「左翼」という言葉は、具体的にはソ連の崩壊によってすでに意味を失っています。 左翼もそれを認識しているわけですが、今回のトランプの勝利は左翼にとってはまさに致命傷になると言えるでしょう。
 しかし、相変わらずメディアは悪あがきを続けています。 アメリカのメディアもそうですが、日本のメディアはそれにまるごと追従しています。
 ある日本のリベラル系雑誌は、トランプの大統領就任を「独裁者の誕生だ」と言いました。 「ファシズムの誕生」につなげたいのでしょうが、それはありえません。核で反撃されればいくら大国であってもおかしくなる、その不安のほうが大きい時代です。ナチスのように独裁的判断をもって問題を片づけていくようなことはもはやできません。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 ファシズムなきナショナリスト

 2017年1月25日、トランプは不法移民阻止のために、メキシコとの国境に 「通過不可能な具体的な障壁」を建設する大統領令に署名しました。 昔ならメキシコに戦争を仕掛けてメキシコを潰し、属国にしてしまうところです。 完全に奴隷化して抑えつけてしまえばよいと考えます。 ファシズム政権であればそうしますが、トランプはそんなことは思ってもいないはずです。
 今現在の状況は、資本主義が発達したところにいわゆる途上国の人々が集まろうとしていて、そこに問題が生じているわけです。戦争では解決できませんし、やみくもに侵略行為を仕掛けることもできません。
 トランプは、ファシズムなきナショナリストであって、ナチスなどとは違います。実は、安倍首相はその先駆です。トランプをアドルフ・ヒトラー(1889~1945年)やベニート・ムッソリーニ (1883~1945年)と並べて語るメディアは、何ひとつわかっていないということになります。
 そして、今後のトランプ政権の動向を考えるうえでは、パトリック・ブキャナンという人物の存在が重要になると私は考えています。

アメリカファースト パトリック・ブキャナン
「反リベラル」の論客パトリック・ブキャナン
 パトリック・ブキャナンは1938年、ワシントンD.C.生まれのカトリック教徒です。 ニュース・キャスター、 政治コメンテーター、作家として知られ、ニクソンやロナルド・レーガン、フォード大統領の「メッセンジャー」、つまり「イデオローグ(論理的アドバイザー)」として活動していた時期もあります。
 ブキャナンはまた、1992年と1996年に共和党、2000年には少数政党であるアメリカ改革党(American Reform Party) から大統領選に立候補した経歴も持っています。 このときのアメリカ改革党予備選には、トランプも立候補していました。 トランプが大統領選中にたびたび口にした「アメリカ・ファースト」は、ブキャナンが使っていたスローガンでもあります。
 ブキャナンは、2002年刊行の著作『The DEATH of the WEST』(邦題『病むアメリカ、滅びゆく西洋』宮崎哲弥監訳/成甲書房)のなかで、前述した “隠れマルクス主義”の代表 「フランクフルト学派」を徹底的に批判しています。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「反リベラル」の論客パトリック・ブキャナン

 フランクフルト学派は、リベラルをイデオロギーとするユダヤ系学者グループで、ドイツでナチスが台頭した時期、反ユダヤ主義政策に追われてアメリカに亡命してきました。ブキャナンはその様を著書で「上陸」と表現し、 「フランクフルト学派が上陸したおかげでアメリカは悪くなった」と述べています。
 実は、フェミニズムやジェンダー・フリー、カルチュラル・スタディーズや多文化主義など今日に至るリベラル勢力の運動はすべて、このフランクフルト学派から出た理論によっているのです。ブキャナンの言う「アメリカの悪化」に道連れにされるように、このフランクフルト学派の理論によって日本も悪くなった――と私は考えています。
 特に1960年代から70年代に学生だった世代、全共闘世代や団塊の世代と言われる人々のほとんどはフランクフルト学派の洗礼を受けていると言ってよいでしょう。
 日本ではマルクスやレーニンなどの名に隠れて、この学派の名は傍流として考えられた節があります。
 日本ではもともとの原典が読まれることは少ないので、フランクフルト学派の名が表に出ることはあまりなかったのかもしれません。 しかし、共産党や今はなき社会党といった政党には属さない、ムード的な左翼思想まで含めた左翼リベラルの大部分はこの学派の影響を大きく受けました。
 フランクフルト学派は、「プロレタリアート闘争」を叫ぶことなく、大学の教員および学生をはじめとするインテリ層を理論普及のターゲットとしていました。左翼政党の衰退に反比例するように、フランクフルト学派は日本の学界で根を強く張っていったのです。

「フランクフルト学派」の正体
 フランクフルト学派は、マルクス主義者の哲学者ルカーチ・ジェルジ (1885~1971年)がドイツのフランクフルト大学で1923年に設立した「マルクス研究所」から始まります。 ソ連の「マルクス・エンゲルス研究所」にならってつくられたものですから、もともと、ドイツにおけるマルクス主義の牙城となることを目指した研究所でした。マルクス研究所はその後、マルクスの名を隠し、「ドイツ社会学研究所」に改名されます。
 1930年に、哲学者、社会学者のマックス・ホルクハイマー(1895~1973年)がフランクフルト学派の中心的存在になります。ブキャナンは前掲の『The DEATH of the WEST』の中でこう述べています。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「フランクフルト学派」の正体

《ホルクハイマーもまたマルクスの分析は現状と異なることを認識し、労働者階級は革命の前衛にはならないと考えた。すでに、西欧の労働者たちは中産階級に移行しつつあった。憎むべきブルジョワとなりつつあったのである。彼はマルクス思想を文化用語に翻訳し始めた。古臭い闘争マニュアルを捨て、新しいマニュアルが加筆された。旧マルキストにとって、敵は「資本主義」、新生マルキストにとって敵は「西洋文化」。旧マルキストにとって権力掌握の方法は暴力による政権転覆である。1789年のフランス革命や1917年のペトログラードのように。 新生マルキストにとって、権力掌握に暴力は不要だが、長期にわたる忍耐強い作業が必要になる。 勝利の大前提は、西洋人がキリスト教精神を捨て去ること。 文化教育制度を掌握すること。 まずは、文化―― 「堅牢堅固な要塞」を支配せよ。そうすれば国家――「外堀」は労せずして崩壊する》
 フランクフルト学派は、ソ連崩壊のはるか以前に、マルクスのプロレタリアート革命理論には瑕疵があることを見抜いていました。そのうえで、第二次大戦前の時点で、フランクフルト学派の目的とターゲットはここまで明確化されていたのです。 現在に至る80年強の年月は、ホルクハイマーの言う、まさに「長期にわたる忍耐強い作業」の渦中にあるということになります。
 ホルクハイマーと同時期に、音楽批評家のテオドール・アドルノ (1903~69年)、精神分析学者のエーリッヒ・フロム(1900~80年)、社会学者のウィルヘルム・ライヒ (1897~1957年)らが目的を同じくしてフランクフルト学派に入会しました。そして1933年、ヒトラーがベルリンを掌握します。
 ホルクハイマー、アドルノ、フロム、ライヒは皆ユダヤ人です。 フランクフルト学派の学者陣はアメリカに亡命し、コロンビア大学の援助で、ニューヨークに新フランクフルト学派を設立します。 ブキャナンの言う「フランクフルト学派の上陸」です。

文化闘争の新兵器 「批判理論」
 ブキャナンは、アメリカに上陸したフランクフルト学派について、前掲書で《再び総力を結集して、今度は避難場所を与えてくれた国の文化破壊にとりかかった》と述べています。そしてブキャナンが、フランクフルト学派が編み出した数ある文化闘争新兵器の中でも特に強力なもののひとつと定義した方法が“批判理論”でした。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 文化闘争の新兵器 「批判理論」

『広辞苑』の「批判理論」の項は、《現代の技術的合理性が自然支配と社会支配という二重の疎外を惹起していることを批判し、独自のユートピア意識のもとに理性の復権を目指す》となっています。 「現代の人間はすべて、自然からも社会からも疎外されている」という考え方で、これはもともとマルクスの哲学用語としての「疎外」からきています。
 社会からの疎外をなくすということは、どういうことでしょうか。どうすれば疎外はなくなるのでしょうか。 フランクフルト学派はまず、「社会をつくりあげてきた伝統的な文化を否定する」ということから始めました。
 文化を否定して破壊すれば、社会は壊滅します。社会が壊滅すれば、疎外の原因はなくなります。ブキャナンは、ある研究者による定義であると断ったうえで、「批判理論」をこう説明しています。
《西洋文化の主な要素を完全否定する批評。 キリスト教、資本主義、権威、家族、家父長制、階級制、道徳、伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、相続、自民族中心主義 因習、保守主義、何から何まですべて(前掲書)
 日本のキリスト教徒の人口比は、『宗教年鑑 平成27年度版』のデータによればわずか1%です。 そこでこの際、「キリスト教の否定」という部分を除かせてもらえば、特に戦後日本の進歩的知識人と呼ばれる人々が批判してきたすべてがここに含まれています。
 この「批判理論」こそは、戦後、アメリカと日本が共有することになった“強力な思想”だったのです。

長髪に髭……、「反戦」を叫ぶ”ヒッピー世代”の誕生
 ブキャナンは、《批判理論の衝撃を受け、史上最高に恵まれていたはずの60年代世代の多くが、自分たちは耐えがたき地獄に生きていると確信した》 (前掲書)と述べています。日本人もまた、「自分たちは疎外されている」と教えられ、そのように感じるようになりました。
 長髪で髭をはやした若者がギターを奏で、盛んに「反戦」を叫ぶようになったのもこの頃です。1960~70年代の「フラワー・チルドレン」と呼ばれた“ヒッピー世代”は、フランクフルト学派の「批判理論」が生んだのです。
 学校では、《試験やテストは暴力の一種、体育の強制も苦手な者や不安な者にとっては暴力と同じ。生徒は許可もなく廊下に出てはいけないという規則も暴力なら、無理やり授業を聞かされるのも、自習室での勉強を強制されるのも暴力》(『緑色革命』チャールズ・ライク)ということになりました。 放任や登校拒否が賛美され、学級崩壊の歯止めもなくなり、その流れの中で「ゆとり教育」が生まれることになりました。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 長髪に髭・・・・・・、「反戦」を叫ぶ”ヒッピー世代”の誕生

 ブキャナンは、フランクフルト学派による”キリスト教”への非難を重視しています。 「人種差別、性差別、移民排斥、外国人嫌い、同性愛嫌い、反ユダヤ、ファシズム、ナチズムなど西洋が犯した悪行は数々あるが、それはキリスト教のもとで形成され西洋社会の特質によるものだ」とフランクフルト学派は主張するからです。
 ナチズムそのものを西洋社会の特質から生じた病のようにとらえる“方法”は、日本の戦争を「侵略戦争」として「南京大虐殺」をつくりあげ、ナチスと同じことを日本が支那大陸や朝鮮半島で行ったととらえて日本社会の病と考える思想と重なります。
 文化をターゲットとするフランクフルト学派の、日本への影響がよくわかる一例が、平成14年(2002)の「新しい歴史教科書』に対する反対運動ではなかったかと私は思います。「子供と教科書全国ネット21」などという組織が組まれ、共産党の不破哲三議長(当時)が率先して『新しい歴史教科書』批判の本を書きました。この教科書が検定に通ったことを、朝日、毎日の大手新聞、共産党機関紙・赤旗はすべて一面トップで非難しました。
 つまり、すでに左派勢力にとっては、選挙などの政治運動よりも、このような「教育問題」のほうが主戦場になっていたということでこの教科書の採択がゼロに近かったのは、中学生のレベルでは使いにくい教科書であったことが主な理由でした。それをメディアは「近隣諸国への侵略戦争の記述が不適当だったからだ」として、政治問題に勝利したかのような記事を書き、大喜びしていました。それほどにこの反対運動は、左派勢力にとっては主要な戦いだったのです。

20世紀におけるマルクス主義の経典『獄中ノート』
 フランクフルト学派とほぼ同時期にあって、学派とほぼ同じ思想と戦略を持ち、そのためにブキャナンが徹底的に批判する人物に、イタリア共産党書記長だったアントニオ・グラムシ(1891~1937年)がいます。
 1922年のムッソリーニのローマ進軍で、グラムシはロシアに亡命していました。
 グラムシは「ロシア革命」のなりゆきをつぶさに見て、 「恐怖政治でしか体制を維持できないレーニン主義は失敗に終わる」 と判断します。 幻滅と体制に対する恐怖感からグラムシは帰国し、その後にイタリア共産党書記長となるわけですが、ムッソリーニによって投獄され、肺結核を理由に釈放された直後、46歳で他界します。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 20世紀におけるマルクス主義の経典『獄中ノート』

 グラムシは獄中で膨大な『獄中ノート』を執筆しました。それはフランクフルト学派が盛んに引用する、20世紀におけるマルクス主義の経典のひとつになっています。
 ブキャナンはグラムシの思想的役割を重視して、次のように述べています。
《グラムシは労働者階級が幻想だと知ると、革命の新兵として、「歴史的に反主流とされる層、経済的に虐げられた人々だけでなく、男性に対する女性、多数民族に対する少数民族、犯罪者まで」 すべてが含まれると考えた。 犯罪者が悪いのではなく、犯罪を起こさせた社会が悪いのだ、と。 加害者は逆に保護されるべきだ、真の加害者は安穏と暮らしてきた保守的な階級なのだ、と言わんばかりだ。 「新世代の若者はみな疎外感にもがき苦しんでいるからこそ」犯罪に走るのだ。「黒人や貧困、世の中の敗者」脱落者こそが英雄なのだ、と――》(前掲書)
 グラムシは「まず、市民社会の文化を下から変える必要がある」と考えました。そうすれば、熟した果実のごとく権力は自然と手中に落ちてくる――。そのために、「芸術、映画、演劇、教育、新聞、雑誌、さらに当時の新メディアであったラジオなどを一つひとつ丁寧に攻め落としていき、革命に組み込んでいく」ことを主張したのです。
「人々は徐々に革命を理解し、歓迎さえするようになる」とグラムシは考えました。ブキャナンはグラムシについて、次のように結論づけています。
《グラムシの理論は正しかった。70年にわたり世界を振動させた社会主義革命はついに崩壊した。結局、レーニン・スターリン主義は、本来の目的(絶対的権力掌握)をごまかすためにマルクス思想を政治的に利用するという当初の考えから抜け出すことができなかった。レーニン方式は疎んじられ、誰にも嘆かれることなく死を迎えた。が、グラムシの革命は脈々と受け継がれ、今なお多くの賛同者を獲得し続けている》 前掲書)
 これが今日まで続いている、「伝統と文化を破壊する」というリベラルの根底にある思想なのです。

「ポリティカル・コレクトネス」に苦しむアメリカ社会
 ブキャナンは、《グラムシの革命は脈々と受け継がれ、今なお多くの賛同者を獲得し続けている》と言っています。その顕著な例のひとつが、今回の米大統領選でも話題になった(特にトランプの、暴言と揶揄され続けた発言について盛んにとりざたされることになった)、「ポリティカル・コレクトネス」の問題でしょう。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「ポリティカル・コレクトネス」に苦しむアメリカ社会

 ポリティカル・コレクトネス(political correctness)とは、「政治的に正しい、正義である」という意味ですが、具体的には「あらゆる場面で、 人種・性別・文化・民族・年齢・宗教・政治指向・性癖などの違いによる偏見、差別を含まない言葉や用語や表現を用いなければならない」とする考え方とその実行で、「PC」と略される場合もあります。
 クリスマス時期のあいさつは「メリー・クリスマス (Merry Christmas)」ではなく、「ハッピー・ホリデイズ」 (Happy holidays)とするべきだ!という姿勢はその典型です。 宗教差別の可能性を、宗教の違いを生じさせないことで排除しようとするポリティカル・コレクトネスの一例です。
 これは、リベラルが模索した結果として出てきた、事実上不可能となったプロレタリアート革命に代替する革命の方法論のひとつ「多文化主義」によっています。多文化主義は、決して「各国、各民族、各地域の文化を尊重する」という思想ではありません。
 多文化主義は、「それぞれ異なる文化がほんの少しでも傷つけ合う可能性を排除するため」という名目のもとで「すべての文化は均一化されるべきだ」とする考え方なのです。文化の破壊を目的としていることは明らかでしょう。
 ソ連崩壊後、アメリカでは多くの人が「これで左翼は抑えられ、保守派が勝利する」と考えました。 しかし、保守派が政治・軍事面で左翼に勝利したと思っているあいだに、すでに保守派は“文化の面での縄張り”を失っていたのです。 「保守派はもっと文化闘争に関心を持つべきだ」とブキャナンは主張していましたが、保守派は無視してきました。
 フランクフルト学派もグラムシも、社会主義運動において最も効果があるのは「文化の攻略」だと明言してきました。それを知っているにもかかわらず保守派は、「金儲けと政治戦略だけに明け暮れている」――とブキャナンは非難しています。
 これは、日本もまったく同じ状況だと言えるでしょう。自民党議員の大部分を見れば明らかです。 保守派にはもはや政治と経済の話題しかなく、いつのまにか文化的な教養も感受性も失っているのです。
 そんな中、リベラルの革命方法論に、わずかにでも風穴を開けたのがトランプでした。 偽善に満ちたポリティカル・コレクトネスだらけで息苦しく、うんざりしていた人々が、ポリティカル・コレクトネスを無視するかのような大胆なトランプの発言に陰で大喝采を送ったのです。
 マスコミがフェイク・ニュースも含めて、いかに「反トランプ報道」を量産し続けようとも、そんなことにはもはや影響されることなく、アメリカのおおかたの世論は「アンチ・リベラル」になっています。今後、トランプ大統領がブキャナンを政権に組み入れるかどうか不明ですが、もし採用することがあれば、リベラルとの文化闘争の開始を告げる、歴史的な政権となることは間違いないでしょう。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「ポリティカル・コレクトネス」に苦しむアメリカ社会

揺らぎ始めた「EU」の大前提
「EU(欧州連合)」は、国を超えた、ヨーロッパというひとつの抽象的な連合を具体的な政策をもってつくりあげようという動きです。単一通貨「ユーロ」の導入をはじめとする経済的な連合体だけではなく、“精神的な共同体”をも人工的につくりあげようとしています。たとえば、EUの政策決定機関である欧州連合理事会は、人権と差別ということについて、次のように宣言しています。
《EUは、宗教および信仰の自由を推進し、人種や民族、年齢、性別、または性的指向を理由にした差別に対抗し、子どもやマイノリティ、 先住民、難民、移民、障害者の権利を主張することで、あらゆる種類の差別と闘っていく。EUは引き続き、差別的な法律、性別に基づく暴力や疎外に反対することで、あらゆる文脈における女性の権利とエンパワーメント(権限付与) のための運動を展開する》
 ところが2016年6月、イギリスが国民投票で「EUから離脱すべきだ」という総意を決めました(BREXIT)。 残留支持約48%、離脱支持約52%という結果でした。
 イギリスが抜けるということは、EUからヨーロッパのいちばんいい部分、根幹的な部分が抜けるということに他なりません。EU崩壊の危機を呼ぶ、きわめて重要な出来事です。
 イギリス国民が問題にしたのは、EUに加盟しているために受け入れなければならない「移民」の規模でした。各国には各国それぞれの「思想」と「国体」というものがあります。それが入り混じると、元からそこに住んでいる人たちの“精神的な自立性”というものが何かしら失われ、そのおかげで、何か気持ちの落ち着かない感じになるというのは当然のことです。
 しかし、EUのような広域な共同体を形成しようとすれば、移民はつきものです。EUには、前述した欧州連合理事会の宣言に見られるように、公的にも、移民政策は大前提として存在します。
 EUでは、共同体を形成する以上は「他の民族が入ってきても、それほど先住民の精神状態が侵されることはない」と考えられています。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 揺らぎ始めた「EU」の大前提

 ヨーロッパは、EUの前身「EC (欧州諸共同体)」として1960年代後半からの共同体経験があり、「グローバリゼーションの蓄積があるので、他の文明の人々をとり入れても、それほど強い衝撃はないだろう」という前提でやってきたのです。

グローバリゼーションの欺瞞
 しかし、忘れてはいけないのは「EUはキリスト教共同体である」ということです。東欧も昔は社会主義で、その主義の下では宗教は否定されたわけですが、1989年の「東欧革命」を経て、キリスト教国家に戻りました。キリスト教共同体であるところに、イスラム教徒の移民が大規模に入ってくることになったのです。
 国の主要産業の中枢に入り込むことのない、知的生産性については低い労働者移民であればまだいいのかもしれませんが、その規模が人口の10%を超えるようなことになってくると新たな問題が生じます。もともとあった共同体に溶け込むということではなく、異質な共同体が新たに生じることになるからです。
 イギリスの場合、それが非常に重荷になってきたわけです。 2015年に国際連合が報告した移民動向に関する文書 「Trends in International Migration Stock」によれば、イギリスの移民人口比率(外国生まれの人口比率)は11.3%です。イスラム教徒の移民人口比率は2010年の時点で4.6% (アメリカのシンクタンク・ピュー研究所の調査結果) ですから、現在はもう少し増えているでしょう。
 BREXITは、「アイデンティティの揺らぎ」の問題です。ひとつの民族、ひとつの国家というのは、アイデンティティがないと気持ちが悪いのです。その国に住む人間は、「自分の居場所をどこに置いたら、何に依拠したらいいのかわからない」ということからくる不安でいっぱいになります。
 若い人たちが移民問題についてしばしば楽観的なのは、簡単に言えば「アイデンティティを必要とするほど生きていない」からです。たとえば、外国に旅行するということになれば、どこへでもいけそうな錯覚を持ち、どの国でも生活できそうな錯覚を持つ―― 。しかしそれは、若者特有の感覚です。
「人は10歳まで育ったところ、そこで受けた印象が個々のアイデンティティになる」と私は考えています。「母の乳を飲み育ち、家族とともに暮らし、無心に学校に行き、住む土地の景色を見て、言語を形成していく」、――それがアイデンティティが形成されていくということです。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 グローバリゼーションの欺瞞

「確固とした居場所は必要ない」とするグローバリゼーションが進み、アイデンティティが揺らぎ始めると、人は精神的におかしくなります。移民の規模が大きくなり、実際にそうなってみて初めてイギリスの人々は気がついたのでしょう。
 BREXITは、「グローバリゼーション化が人間を幸福にするというのは嘘である」ということをヨーロッパ、少なくともイギリスがはっきり感じ始めた証拠です。 確実に、国際社会は「アンチ・リベラル」に舵を切ったのです。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 グローバリゼーションの欺瞞

第一章●「リベラリズム」は駄目な思想である
Ⅰ フランクフルト学派の「批判理論」
「批判理論」の目的は、人々に“疎外感”を与えること

「民進党や社民党、共産党をはじめとする左派野党の国会質疑は、批判ばかりに終始して時間の無駄だ」とはよく聞かれる苦言です。 「批判するがための批判」は、もはや慣用句のようにもなっています。
 しかし、「批判ばかりだ」というクレームは、彼らにとって、実はクレームでも何でもない――ということを私たちはそろそろちゃんと理解すべきです。彼らは、対案を出す必要性も感じていませんし、批判に終始することを「時間の無駄だ」とも思っていません。
 なぜなら、彼らの思想においては「批判に終始することこそが正しい方法である」と、しっかりと理論で正当化されているからです。その理論は、「批判理論 (critical theory)」と呼ばれています。 前章でも触れた、フランクフルト学派によって確立された批評方法です。
「批判理論」には目的があります。それは、「社会に対して批判と攻撃を重ねていくことで、人々に“生きていることへの厭世観”と“疎外感”を与える」ことです。
 日本人が戦後、経済において高度成長を遂げたあと、その豊かさと自由を享受しながらも、《疎外感、絶望感のようなものを覚え、社会や国家は差別的で邪悪で忠誠を誓うに値しないと思い始めた》(『The DEATH of the WEST』パトリック・ブキャナン)のも、 「批判理論」で理論化されている通りの帰結です。 そして、 フランクフルト学派は、「批判理論」を行使することによって生じるこの“疎外感”こそ、将来、「革命」を起こすための必須条件だと考えていました。
 そして、このフランクフルト学派の根幹理論「批判理論」が構築されるにあたり、指導的な立場に立っていたのがテオドール・アドルノです。

「アウシュビッツのあとで詩を書くのは野蛮である」 (アドルノの言葉)
 アドルノは、1903年生まれのユダヤ系ドイツ人です。 フランクフルト学派の哲学者、社会学者で、同時に音楽評論家、作曲家としても知られています。 アドルノの思想をよく象徴する言葉が次の一節でしょう。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 フランクフルト学派の「批判理論」 「批判理論」の目的は、人々に疎外感”を与えること

《アウシュビッツのあとで詩を書くのは野蛮である》
 これは、1949年にアドルノが書いたエッセイ 「文化批判と社会」の中に出てくる一節です。前後の文章は次のようになっています。
《文化批判は、文化と野蛮の弁証法の再終段階に直面している。アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である。しかもこのことが、なぜ今日では詩を書くことが不可能になってしまったのかを教える認識をさえ蝕んでいるのだ。 精神の進歩もおのれの一要素として前提するような絶対的な物象化が、今やこの精神を完全に呑みこもうとしている》
 考えなければいけないのは、アドルノが「詩を書くことは“野蛮”だ」と言った真意についてです。文章そのものは、「野蛮」によって文化が破壊される時代になったという認識さえなくなった同時代人を非難するかたちになっています。
 しかし、注意しなければならないのは、このアドルノの文章は、アウシュビッツという「ナチズムのユダヤ人に対する蛮行への非難」が中心であるにもかかわらず、そのことを「詩を書くことを否定する」ということに結びつけている点です。元来、「アウシュビッツ」と「詩」は、まったく別の話です。
 ユダヤ人虐殺という「野蛮」を告発する詩を歌うことは、当然、詩人の権利であるはずです。それは決して「野蛮」とは言えないはずです。実は、ここには”自由”の問題が隠されているのです。

リベラルの得意技は“言葉狩り”
 アドルノの先の文章の内容は、極端に言えば「言論統制」です。 マルクス主義の「全体主義志向」のプロパガンダが隠されていると言ってもいいでしょう。アドルノは、「野蛮」であるところの詩が、あたかも文化全体を指すかのように思わせるレトリックを張り、文化そのものの否定を行っているのです。
 アドルノのこの一節は、フランスで「五月革命」が起きた1968年頃に広く知られるようになりました。少なくない数の人々がこれを支持しました。
 しかし、この一節を支持するということは、同時に、詩を書くという行為を内に持つ、支持した側の中産階級の文化を圧殺するということを意味します。 アドルノは、この一節とそれが支持されることで、いわゆる「ナチズム」 「ファシズム」を“絶対悪”としながら、それを生んだ 「中産階級を“悪”に仕立て上げる」ということに成功しているのです。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 リベラルの得意技は“言葉狩り

 ブキャナンは、アドルノについてこう述べています。
《ファシズムの営巣を家父長制家族に見出したアドルノは、今度はその生息環境――伝統文化――をこう分析した。「ファシズムへの感染は中産階級に典型的な現象で、その“文化に内在する”、と言える。よってそのような文化にすっかり順応した中産階級こそ、最も偏見に満ちた層と考えられる」――》(前掲書)
 注目したいのは、「家父長制家族」という言葉です。 アドルノは、精神分析学の創始者ジークムント・フロイト(1856~1939年)を重要視し、特にフロイトが提唱した「エディプスコンプレックス」に注目しました。
 エディプスコンプレックスは、『ブリタニカ国際大百科事典』では《男子が母親に性愛感情をいだき、 父親に嫉妬する無意識の葛藤感情》と解説されています。そして、このエディプスコンプレックスという考え方こそが、「批判理論」 を理論正当化している根幹の原理です。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 リベラルの得意技は“言葉狩り


「役割分担」を巧妙に言い換えた、「階級」という用語
 現代の西洋から提供された歴史をただ受け入れることは危険です。 なぜなら先にも触れたように、現代の西洋史は「常に社会は混乱しており、それを整理するためには社会主義体制がよく、闘争することで今日よりも明日が必ず良くなる」と考える、 19世紀のマルクス思想を中心とした「階級闘争史観」にもとづく思想に誘導する目的を持ってしまっているからです。
 本来の西洋思想史はキリスト教史が基本で、それに対する社会思想史であり、古典的リベラリズムはそれにもとづく人間の自由の問題であったわけですが、後のリベラリズムの手によって大きく変わりました。アダム・スミスにしても、「健全な資本主義、均衡のとれた資本主義というのは自然に生まれる」ということをちゃんと言っているにもかかわらず、「それは無理だ」ということばかりを言い募ります。
 マルクス主義は「階級」という言葉を盛んに使います。 これは、古来、日本では「役割分担」と言ってきたものをマルクス主義の主張に合うように言い換えた言葉です。
 人間は、何でもできるわけではありません。 必要なこと、できることをやって生きていきます。 畑仕事も役割分担であり、靴磨きも役割分担であり、王様もまた役割分担である――。「あらゆることは役割分担」という約束事が社会にはあるのです。これは日本だけのことではなく、世界のすべてがそうだと私は思います。
 マルクスは「階級」という用語を導入して、「闘争」を呼びかけました。以降、階級闘争理論、 また、それにもとづく歴史観 (階級闘争史観)を持ってしまったために、あらゆる思想がおかしくなったのです。

「文化破壊」がリベラルに残された道
 20世紀に入って、マルクス史観による思想史をとることがあたりまえになってしまいました。そのために、それとは異なる歴史観が綿々とあったこと、今もまた神学史として確立し続けているということが忘れ去られてしまいました。私たち自身、「気がつかないうちに、マルクスの理論と歴史観に染まってしまっている」ということを自覚する必要があると思います。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「役割分担」を巧妙に言い換えた、「階級」という用語、「文化破壊」がリベラルに残された道

 そして、マルクスがそうであり、フランクフルト学派がそうであるように、20世紀の数多くの思想は、「批判理論」によって構築されています。 「国家を否定すること」「規制社会を否定すること」が大前提となっているわけです。
 20世紀の重要事件は、 ロシア革命にしても第二次大戦にしても、 ユダヤ人が潜在的にリードしてきました。 ナチズムに対する批判を大きな武器として、アドルノをはじめとするフランクフルト学派の思想が西洋あるいは欧米に蔓延しました。
 実は、日本はそれに巻き込まれたに過ぎません。 ユダヤ問題は、日本人にとって直接的には関係ありませんが、西洋思想を通して、日本人も「ユダヤ人に対して、何か悪行を働いたような意識」を植え付けられました。 無条件に「ユダヤ批判はいけないこと」という感覚が、何も関係ない日本人にまで感染しているのです。

「リベラル」という言葉に象徴される、「隠れマルクス主義」がここに誕生します。
 20世紀の前半までは、プロレタリアートによる「暴力革命」という厳然たるマルクス主義の実行計画がありました。マルクス主義によれば、資本主義は倒されなければなりません。それが、ソ連の崩壊、社会主義の失敗を通して見直す必要が出てきました。 プロレタリアートによる暴力革命も、資本主義が高度に進んだイギリスでさえも、すべてが中産階級化するという事実を通して階級闘争史観が否定され、成立しなくなりました。
 そこでリベラルは、 破壊の対象を「文化」に見定め直しました。文化を不安にさせ、人々の疎外感を増長させ、社会主義革命を起こす、あるいは少なくともそれに似た何かに変革していこうということに変わったわけです。
「革命」という言葉を口にするのも憚れるくらい、資本主義社会は安定してしまいました。隠れマルクス主義にとっては、文化に対する批判のみが残された道です。 リベラルは、「理想化された未来にのみ意味がある」とする思想であるために、常に現在と過去を否定し、私たちが常識として感じる伝統と文化は「無価値である」と言い募ります。
 リベラルの、そういった本質を見逃せば、リベラルが意図するまま、私たちは日本の文化を忘れてしまいます。 神社仏閣がなぜこれだけ各地各所にあるのかわからなくなり、なぜお祭りを毎年行って熱狂するのかわからない状態におかれ、やがてはすべてを捨て去ることに躊躇しなくなってしまうでしょう。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「役割分担」を巧妙に言い換えた、「階級」という用語、「文化破壊」がリベラルに残された道

 それはまた西洋でも同じことです。もちろん今でも教会にはちゃんとした言論が残っていますが、表には出てきません。 残っているにもかかわらず、リベラルが言論で否定する、あるいは無視するという作業を続けているために、教会の言論は存在しないかのように思わされているのです。
 そして、こういったリベラリズムを再構築することで、1970年代以降のアメリカを席捲し、さらには後発のリベラルに影響を与え続けているのが先のロールズの思想であり、その著書 『正義論』です。ロールズはリベラリズムに、「平等」の概念を持ち込みました。

「平等」の概念を加えた、ジョン・ロールズ
 ロールズは1921年生まれのアメリカの哲学者です。ハーバード大学教授を長く勤めました。
 ロールズの思想も、実はマルクス主義と変わるところはありません。 「資本主義において、自由を重んじると必ず階級格差が生まれ、富めるものがどんどん富んでいく」という考え方が基本だからです。 ロールズにとってはこの状態は調整される必要があり、そこに導入されるのが「平等」という概念です。
 後に詳しく触れますが、現代のアメリカ哲学を代表する思想家に、ロールズの思想を評価しながら「プラグマティズム (実用主義)」を主張したリチャード・ローティ (1931~2007年)がいます。 ロールズにしろ、ローティにしろ、中立で実利的な主張をしているように見え、また、アメリカという国の学者であることもあって、特にローティに関しては日本では「保守思想家」 のように喧伝されています。しかし、彼らの思想は、根本的に社会主義思想だということに注意しておく必要があります。
 ロールズもローティも社会主義者です。 平等とは何かを理論化し、平等を実現しようとしたときの具体論は、あきらかに社会主義的方法です。
 現代のアメリカで、リベラルは端的に社会主義者のことを指し、リベラリズムは端的に社会主義のことを指します。 それは、「自由」という言葉が20世紀のアメリカでどのように使われてきたかということに大いに関係があります。
 古典的なリベラリズムは「個人の行為や経済活動を抑制しないこと」「政府などの介入を少なくしようとすること」が自由の内容でした。ところが1930年代、民主党出身の第32代米大統領フランクリン・ルーズベルト(1882~1945年/任期1933~45年)が「欠乏からの自由」ということを言い出します。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「平等」の概念を加えた、ジョン・ロールズ

何にでも適応可能な「〜からの自由」
 ルーズベルトは1941年の「一般教書」で、民主主義の原則として「表現の自由」「信仰の自由」「恐怖からの自由」 そして 「欠乏からの自由」を挙げました。「Four Freedoms (4つの自由)」として知られています。
 このことで、アメリカのリベラリズムは歯止めを失ったということができるでしょう。 「自由」という言葉を、「欠乏からの自由」というような文脈で公的に使ってしまうことで、「~からの自由」というように、自由をあらゆることに適用することができるようにしてしまったからです。
「欠乏からの自由」の実現は、「経済的な弱者を失くす」ということですから、これはもはや社会主義そのものです。リベラリズムは、あきらかに社会主義の顔を持ちました。
 ロールズの思想もまたこの枠内にあります。 「欠乏からの自由、経済的な弱者を救済しなければならない」という目的を持つ「平等」の理論です。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズ (1883~1946年)の「ケインズ経済学」 もだいたい似たようなものだと私は考えます。
 顔つきを変えたマルクス主義だと言っていいでしょう。 ロールズの『正義論』にも通底しています。
 日本では、アメリカの思想については、あたかも市民主義的な、保守的なものだろうという印象が持たれがちです。しかし、本質はフランクフルト学派と変わることはありません。
 ルーズベルト以降のアメリカのリベラリズムもフランクフルト学派も、同じ時代を生きています。 マルクス主義を横目で見、ソ連を横目で見ていました。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 何にでも適応可能な「〜からの自由」


リベラルは敗北者の「避難場所」
 フランクフルト学派の隠れマルクス主義思想、つまり「西洋全体を社会主義化するために中産階級の疎外にターゲットを定め、疎外を武器として変革を狙う」という戦略は、結局のところ、アメリカもヨーロッパも共通して持っているということになります。これがやはり、「リベラル」という言葉に集約していく根本の思想なのです。
 しかし、リベラルは結局、マルクス主義そのものの理論の後退による、階級闘争が不可能になったことによる、プロレタリアートが力を持つことにならなかったことによる、その結果として生まれた「逃避場所」に過ぎなくなってしまいました。
 リベラルという言葉はあいまいなままに、しかし、いつのまにか“変革の原点”のように思われています。このあいまいさというのは結局、左翼が自己の思想をマルクス主義の原理でとらえることができなくなったことからくるものです。
 これは“マルクス主義の終焉”を意味しているはずです。 終焉でありながら、リベラルの名のもとに、「国家批判」「体制批判」「権威批判」をもって、相変わらず 「批判理論」で延命しようとしています。
 なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。その原因は「大学」にあると私は思います。
 戦後、ソ連によって一度建設された社会主義体制への、社会主義そのものへの幻想は、思想家である大学教授の手で大学組織に組み入れられました。実は、 ローティ自身でさえ、そういう状態を「大学左翼」あるいは「文化左翼」と呼んで批判しています。

文化は「言語」だけでつくられているわけではない
 この事実が、現状をさらに悪くしていると私は思います。 ローティによって大学左翼、文化左翼と呼ばれたイデオローグは、その大半が大卒者で占めるマスコミ業界に入り込みました。 一般大衆への「批判理論」のさらなる拡散が始まったのです。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 リベラルは敗北者の「避難場所」、文化は「言語」だけでつくられているわけではない

「批判理論」のイデオローグはマスコミという情報装置の中枢に入り込みました。 マルクス主義が失敗した経済主体の変革、ではなく、“文化主体の変革”という恐ろしいほどの幻想を、テレビ、新聞、雑誌などを通して撒き散らしているのが現在の状況です。
 ここには、文化に対する無理解さがあります。 「文化などというものはいつでも変えられるし、つくることができる」という、根拠のない傲慢さがあります。
 文化は、言葉で変えたりつくれたりできるものではありません。土着の風土に根付いた、社会の伝統に根付いた人々の手によるものでなければ、表現の強さや豊かさは生まれず、「文化」になることは到底できません。
 リベラルは、「文化は言語でつくっていくもの」と勘違いしています。したがって、“言葉”で破壊していこうとします。これがまさしく「批判理論」の真髄であり、リベラルが駄目な思想であることの根拠です。
 チャールズ・テイラー(1931年~)というカナダの政治哲学者がいます。 テイラーが主張するリベラルの方法論に「多文化主義」があります。 「多文化主義」という文字だけ見れば、あたかも各国各地域、各民族の文化を尊重する主義であるかのように見えますが、実はそうではありません。

文化を均一化する 「多文化主義」
「多文化主義」は、まず「様々な層に様々な文化、そして各民族、各国にそれぞれの「文化がある」と言います。ただし、それらの文化の実体、文化そのものを研究することはしません。
 要するに、多文化主義は「多々ある文化は並列的に並べて扱われるべきだ」とする、文化に対する態度です。したがって、多文化主義は「社会や国家にはそれぞれの文化がある」ということの価値を認めません。
「いろいろなものがあるから、それらは全部並列的に認識されるべきであり、並列的に認識する方法を実行することで公共領域での他者の自由は保証されるだろう」といリベラルの理論です。
 これによって何が起こるかと言えば、各国文化の“消滅”です。 多文化主義は「文化を否定し、破壊するための理論」なのです。 「文化を尊重するための理論」では決してありません。
 多文化主義は、特有の文化を認めません。高いとされる文化も低いとされる文化も、あるいは特殊とされる文化もすべて同じだと見ます。 「では、あなたの文化は何なのか」という質問については、リベラルは決して答えません。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 文化を均一化する 「多文化主義」

 答えないことが多文化主義であり、つまり、そういうレトリック、言葉の作為に過ぎません。 ローティが「文化左翼」などと呼ぶので、文化をちゃんとつくるつもりで、その源泉を探っているかというと、そうではないのです。

「伝統文化」を研究することが「権威主義」と批判される異常さ
 現在、驚くべきことに世界中がそのような状況にあります。私が美術史家として、海外の学会で今も経験していることですが、 「伝統文化」を研究しようとすると、「権威主義」あるいは「エリート主義」といった言い方で批判を受けます。
「文化を評価する、位置づける」ということをできるだけ避けるのです。まさに「多文化主義」の態度を今、世界の学会がとっています。
 私がいくら、「ルネッサンス美術」や「キリスト教美術」「仏教美術」について、こういう価値があります、と言っても馬耳東風です。 無関心を決め込みます。
 今日、「世界文化遺産」が高く評価されています。その評価が人々を動かし、各国の重要な観光資源になっています。 この現実を「多文化主義」をとる文化左翼、学者リベラルたちは無視します。
 なぜかと言えば、伝統文化の研究を開始すれば、各国それぞれに尊重されるべき文化があるということが明らかになってしまい、リベラルが否定すべき、伝統と文化の維持を認めざるを得なくなるからです。
「こういう価値がわが国にはあったのか」ということに気づき、それを認めてしまえば、リベラルは崩壊してしまいます。言葉による説明では処理できない文化そのものに触れることで、「自分個人と他者に共通する何か」、つまり「伝統の価値」を感じてしまう可能性を察知して恐怖しているわけです。
 たとえば、今や世界中どの街にもあろうかという、とある有名なカフェ・チェーン店は、まことに平均的で均一化された、貧寒とした内装です。「ビエンナーレ」(2年に一度行われる国際美術展覧会)でさえ、必ずあるのは“ゴミ”のイメージです。粗末な椅子だけがある会場喫茶店や放置された展覧会機材……、 最先端の芸術界は、すでにそういう退廃的な段階にあります。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 「伝統文化」を研究することが「権威主義」と批判される異常さ

公の場で「ジーンズ」をはくことが文化的!?
 その国その地域にある伝統的な文化をできるだけ見せないようにして、世界中が同じように見えるよう、貧寒としたものを並べるという一種の「自己規制」は、リベラルの思想によっています。それが、エリート批判や権威批判、権力批判に通じるという思想です。
 今では多くの学者が「ジーンズ」をはいています。進歩的で文化的と称される人々は、ネクタイなどはほとんど締めません。すべてエリート批判、権威批判の“表現”のつもりなのです。
 ネクタイなどを絞めた日には、エリートであり権威であることを誇示していると批判されます。世界中の学者が、できるかぎりもっさりとした、わけのわからない格好をしています。 そして、権威的なこと、権力的なことはいっさい口にしません。
 これらはまったくの偽善です。たとえば会議の場などでは、必ずリーダーがいなければいけません。ちゃんとした知識のある人が、 使命感と責任をもってやる必要があります。 学者であること自身、ひとつの「権威」がなければ学説を主張できません。
 こんなことは常識で、わかりきったことです。それが反対に、「ネクタイをしている人は自由がない」 「マナーなど社会的な制度とされてきたことを守ることは権威的である」というところまで行ってしまっているのです。
 テレビに出てくる、日本の学者なども同様です。 「権威的」ととられる可能性のあることは決して言いません。平凡なことを言おうとして、そのための努力さえしています。
 これらの現象は、学問的な劣化や学者の実力の劣化が原因ではないと私は思います。これは、意図的なサボタージュです。実に、リベラルの文化破壊戦略がある程度効果を示してきている状態だと言うこともできます。恐ろしい状態がきています。
 ですから現在は、一般大衆が頼りにするような、まともな思想家がいません。 小林秀雄(1902~1983年)や和辻哲郎 (1889~1960年)、江藤淳 (1932~99年)のような思想家らしい思想家、評論家らしい評論家がいないのです。
 村上春樹(1949年~)の小説は人気があるようです。しかし私には、村上春樹にはまったく思想がないように思えます。その人間観は「地球人間」的発想で形づくられているからです。先に触れたカフェ・チェーン店のようなものです。
 村上春樹にしても、カフェ・チェーン店にしても、ある一定の人気を呼んでいるということはもちろん知っています。そういうことが、世界的に主流となっている風潮であることも、経験のうえでもわかっています。 ですが、果たしてそれが「文化」と言えるのでしょうか。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 公の場で「ジーンズ」をはくことが文化的!?

 伝統を否定し、 無国籍で、無味乾燥な軽薄さにのみ共感して喜んでいる――。
「リベラル」の名のもとに、文化・芸術は今、非常に愚かな、悲惨な状態にあるのです。この一例を見ても、リベラルの駄目さがわかろうというものです。
『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』 公の場で「ジーンズ」をはくことが文化的!?

『日本人にリベラリズムは必要ない 田中英道』


フランクフルト学派の主張 日本の左翼リベラルの主張と一致

フランクフルト学派 批判理論 定義・・・伝統・文化の主な要素を嘘でも捏造してでも、完全否定する批判を繰り返す


『見えざる世界政府 ロックフェラー帝国の陰謀 PART.2 ゲイリー・アレン著』
「アメリカ第一」という言葉はCFRの辞書には存在せず、 彼らは愛国的な言辞を弄する者に極度の不快感を示すのである。


トランプ ツイッター 和訳
検索 トランプ ツイッター 和訳
トランプツイッター パトリックブキャナン

検索 トランプ ブキャナン 


https://twitter.com/David_R_Stanton/status/1098212592756043777
トランプ大統領が先日のマイアミのラリーで社会主義批判
(0’00”)
社会主義は繁栄を約束するが実際にもたらされるのは貧困だ。社会主義は団結を約束するが実際にもたらされる物は憎しみと、そして分断だ。社会主義はより良い未来を約束するが実際には社会主義は常に過去の最も暗黒な時代に戻っていくのだ。例外は無い。常にそうなるのだ。…

(0’26”)
社会主義とは「歴史と人間性に対する完全なる無視」に根ざした、惨めで信用のおけないイデオロギーであり、これが社会主義が最後には独裁政治を引き起こす理由なのだ(拍手)。

(0’49”)
社会主義者は多様性に満ちた愛を公言する。なのに彼らは常に(彼らの社会が期待する)規範への絶対的な…
服従を声高に言う(*訳注)。

我々は知っている。社会主義は正義の為にあるものでもなければ平等の為にあるものでもなく、貧困層を富ませるためにあるものでも無いという事を。
社会主義の目的はただひとつ、それは支配層の権力の為にあるのだ(拍手)。…

(1’19”)
そして彼らが権力を身につけるにつれ、彼らはもっと多くの事を熱望するようになる。彼らはヘルスケアをやりたがる。輸送だの財政だのをやりたがる。電力、教育、全てを掌握したがるんだ。彼らは誰が勝者となり、誰が敗者となるかを、誰が有卦に入って誰が零落するかを、何が真実で何が嘘か…
を、そして誰が生きて誰が死ぬかでさえ決定する権力を欲するのだ(拍手)。

(1’55”)
手短に言えば社会主義以上に非民主主義的な体制は無いという事を我々は全員が知っている。どこでも、いかなる場所でも「進歩」の旗のもとに社会主義は伸長するようだ。だが社会主義が最後にもたらす物は…
腐敗と搾取と衰退のみなのである。


宮崎正弘の国際ニュース・早読み 平成30年(2018年)7月14日(土曜日) 通巻第5760号 
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)貴誌の書評で昨年取り上げた、田中英道『日本人にリベラリズムは必要ない』(KKベストセラーズ)を読了。書評では触れていませんでしたが19世紀以来のユダヤ問題がこれほど明確に指摘されているとは驚きでした。
戦前の本ではたびたびユダヤの危険思想に気をつけろ、との警告がなされていましたが、戦後はナチスのユダヤ人迫害を盾にユダヤに関する問題はすべて陰謀論・人種差別主義者のレッテル貼りで封じ込められました。
同書では20世紀最大の事件ともいえるロシア革命は断じて「共産主義革命」ではない、と強調していましたが、戦前の本ではユダヤ革命とはっきり指摘しています。
ロシア旧体制の指導層は処刑・亡命・収容所送りになり、その後を埋めたのはほとんどがユダヤ人だった。当時の日本に置き換えてみるとユダヤ人は朝鮮人ということになるのでしょうか。
実際、朝鮮人によるテロは数知れず、戦後の朝鮮進駐軍の暴虐ぶりから思うに、欧州の1920〜30年代に革命思想に燃えたユダヤ人が騒ぎを起こせば起こすほど、ナチスの支持が高まったとしてもおかしくないとさえ思えてきます。

 ソ連崩壊後も左翼勢力が衰えない理由として「フランクフルト学派」の隠れマルクス主義者が大学・マスメディアを抑えたためというのは納得。日米欧ともメディアは左巻きが牛耳っています。
ところがトランプ大統領の当選でマスメディアは少数派が多数派を偏向報道で押さえ込んでいたのがバレてしまった。
学生運動が盛んなころ、大学の自治会を抑えた民青・革マル・中核その他セクトは少数派であっても、多数であるノンポリの学生では太刀打ちできなかったのと同じです。
東大の安田講堂事件やあさま山荘事件で過激派への支持は激減するも左翼はしぶとく生き残ってきました。その生き残りの正体が「フランクフルト学派」のマイルド左翼だったということでしょう。
アメリカのユダヤが分裂しグローバリゼーション・ユダヤからイスラエル・ユダヤ(ナショナリズム・ユダヤ)に転換したのがトランプ大統領誕生の背景という指摘は新鮮でした。憲法九条の真の目的が二段階革命の武装蜂起を鎮圧する軍隊を持たせないためだった、というのもの納得。

 田中英道氏は美術史の第一人者ですが、美術の世界でもユダヤ思想による衰退を嘆いています。
西洋美術における伝統とは「キリスト教美術」なのに、キリスト教を否定するユダヤ思想によって「宗教美術」と呼び替えられる。
とにかくキリスト教を否定するためのユダヤの論理はすべて「否定・破壊の論理」になってしまう。在日朝鮮人の天皇否定・神社否定・日の丸否定とそっくりです。
戦前の本ではユダヤの戦略として宗教の否定(ユダヤ教除く)、皇室・王室の廃止、国家・家族・結婚などすべての伝統を否定するとあります。さらに大きな狙いとして民族の純度を下げることだとも。欧州の現状をみると移民の増大はまさに民族の純度を下げるというユダヤの戦略通り。なにかの本で読んだのですがユダヤ人は最後の最後でいつも失敗するとありました。
欧州のイスラム系移民増大は結局のところユダヤ人排斥につながり、将来的に欧州にユダヤ人の居場所がなくなるのかもしれません。
   (PB生、千葉)

(宮崎正弘のコメント)田中英道氏には本職の美術論のほかにフランクフルト学派研究、占領政策とOSSの関係、さらに驚くべき作品は支倉常長の研究です。
そして日本の仏像美術の紹介もされていて、カバーされている範囲は広く、近年は「日本国史学会」を率いておられますね。


東京裁判とOSS「日本計画」 田中英道著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)が発行さる! OSSを牛耳ったフランクフルト学派(隠れマルクス主義)
田中英道 東北大学名誉教授
田中英道著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)が発行さる!

『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法 田中英道』
『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法 田中英道』
『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法 田中英道』

他方、資本主義国では「否定的弁証法」を標榜したフランクフルト学派が、資本主義内の左翼化、リベラル化をはかってきた。「共産主義」圏と同じ方針では、成り立たなかったからである。各地で一斉に起こった1968年の「5月革命」はその動きであった。その後も、常に中間層に「疎外」感を与え、「反権力」思想に導こうとしたのである。

日本の民主党は、まさにそのフランクフルト学派の社会主義イデオロギーのもと、OSSが創り出した「日本計画」(GHQに引き継がれた)の落し子であった。民主化ならぬ社会主義化で出発した戦後日本の、成れの果ての政党であったのだ。その中に、旧社会党、リベラルが入り込み、その党名のとおり、あたかも民主主義の思想があるかの如く、幻想を与えたのである。その思想が何の実績ももたらさず、現実を破壊するだけの素人政権にすぎなかったことは、彼らの戦後レジームの虚構性をますます明らかにした。それをやっと国民が、彼らに政権をもたせたことでわかったのである。


「共産化しようという勢力」と「共産化を阻もうとする勢力」(戦後、メディア、あるいは言論界を支配した人たちの多くは共産主義者「(正統派)歴史認識者」と「歴史修正主義者」との戦い、「敗戦利得者」が日本の敵である理由)
『聖徳太子 本当は何がすごいのか 田中英道』
◉「和」を社会の根底に置くことで人間の問題を解決する
 聖徳太子が仏教を取り入れたときの考え方は、世界的に見ると、キリスト教を取り入れたときのコンスタンティヌス大帝とか、仏教を広くインドに取り入れたアショーカ王といった人たちの思想とやや似ているところがあります。この三人はいずれも、それ以前にあった自分たちの伝統的な宗教や精神と新しい宗教をどういうふうに折り合いをつけて導入するかを考えた人たちです。
 ですから、聖徳太子は、ある意味で、日本の信仰の祖であるといっていいと思います。今日、大半の日本人は、和を基礎とした社会の中で個人生活を送っています。 これはまさに聖徳太子がつくった思想に依拠しているのです。にもかかわらず、聖徳太子を忘れさせようという勢力があるということは、日本のアイデンティティーを失わせることでもあります。これは重大な問題です。
 それを失わせる勢力とは、やはりマルクス主義者たちです。 マルクス主義はあらゆる過去を否定します。そういうものが革命を押しとどめるという考え方です。しかし、この思想は二十世紀という時代を経て、今では否定されつつあります。
 ソ連の崩壊によって社会主義の幻想も崩壊しました。同時に、マルクス主義そのものが一つの抽象的な社会にのみ適用されるような論理にすぎず、ごく普通の社会には受け入れられるものではないということもはっきりしました。 マルクス主義を現実に適用しようとするとプロレタリア独裁のような独裁社会になり、自由も平等もない、人間性を喪失させる社会になってしまうことが実証されています。
 それがわかっているのに、なお唯物論という思想に立っている人たちがいるということが問題です。日本では戦後、マルクス主義が強くなりましたが、それが今はフランクフルト学派的な文化否定の論理に変わっています。 それは変種のマルクス主義、隠れマルクス主義といってもいいと思いますが、フェミニズム、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダーフリー、ポスト・コロニアリズムといった別名でどんどん日本に入ってきています。
 戦後のマルクス主義者たちは、日本でも最終的には革命を実現しようとしたのですが、
それが頓挫したため、今度は人間疎外というテーマを掲げ、今の社会は人間を不幸にするということを、さまざまなやり方でずっといい続けているのです。
『聖徳太子 本当は何がすごいのか 田中英道』 「和」を社会の根底に置くことで人間の問題を解決する

 彼らは、日本の伝統である共同体的な思考を個人主義で置きかえようとしています。しかし、この個人主義はエゴイズムといってもいいでしょう。 人間はすべて自由であり、社会で生きることを保障されているという考え方を前面に出し、だから国家は個人が生きる権利を保障しなければならないというわけです。 これは国家の前に個人があるという見方です。 憲法に国民の義務がほとんど書かれていないのも、そういう意味合いでしょう。
 するとどうなるかといえば、個人の自由を規制する国家を悪と見なす考え方が生まれてきます。個人に都合の悪いことが生じるのは、常に社会が悪い、国が悪いという考え方につながるわけです。
 そういう考え方が聖徳太子批判の原点となっています。それは権力、権威といったものが人間を抑圧するという考え方です。そうした流れが戦後、非常に強く出てくるようになりました。 聖徳太子否定論もこの中に生まれてきたわけです。
 しかし、考えてもみてください。人間はどんな共同体にも所属せず、個人で生きていくことができるものでしょうか。むしろ共同体がなければ個人も生きられないのではないでしょうか。個人の力といいますが、たとえばオリンピックの選手は、国家の代表として行くことによって讃えられるのです。オリンピックは一個人で参加することを認めていません。 国の代表として戦って勝つから国全体が大喜びするという構造になっているのです。そこに個人主義が孤立する余地はありません。
 ノーベル賞は一人の力を評価しているように見えますが、これも人々のために役立ったかどうかが選出基準になっています。その意味では、共同体の利益を抜きにしては考えられないものです。 個人の努力で発見したから偉いというだけではなく、それが人々の役に立つからこそ、常に称賛の根源になるのです。 そしてその科学者の国籍を人々が注目し、その国の人々は、その科学者を自慢することになるのです。
 戦後の個人主義、社会主義思想にはある種の誤解があるのです。 西欧の個人主義が戦後強調されて、それがいいことだといわれたために、個人を大切にするあまり、国家全体を考えないという風潮が生まれてしまったのです。 そして、国家は権力・権威であり、一部のエリートが指導しているという理由から、それに対する批判が出てきました。 そういうフランクフルト学派的な考え方が非常に強く出てきたことが、歴史にも及んで聖徳太子という権力の一画を担う存在への批判と結びついたのです。
 その結果、聖徳太子の偉大な功績を消し去ろうとする虚構説がまことしやかに語られ、不在論が横行するようになったわけですが、和を社会のベースに置く聖徳太子の思想は個人主義的な生き方が虚構であることを明らかにしているのです。その意味で、聖徳太子の思想は今でも生き続けているといっていいでしょう。 これは太子の思想が世界的な思想であることをも意味しています。
『聖徳太子 本当は何がすごいのか 田中英道』 「和」を社会の根底に置くことで人間の問題を解決する

『聖徳太子 本当は何がすごいのか 田中英道』 「和」を社会の根底に置くことで人間の問題を解決する


第135回東アジア歴史文化研究会 ■「日本をダメにするリベラルの正体とは何か-なぜリベラル勢力は凋落したのか」山村明義氏講演レジュメ
2017年6月22日・常円寺祖師堂
第135回東アジア歴史文化研究会 講演レジュメ
テーマ「日本をダメにするリベラルの正体とは何か-なぜリベラル勢力は凋落したのか」
講演者 山村明義氏(作家・ジャーナリスト)


1.国際・国内共に、国家と社会に摩擦と軋轢による「事件」を生むリベラルの存在

①国際
アメリカ大統領選=「LGBT」や「ポリティカル・コレクトネス(PC)などのリベラル派の偽善と欺瞞により、トランプ大統領の誕生を生んだ。イギリスでは、リベラル派の移民政策の拡大が、ブレグジッド(EU離脱)の最大の呼び水となった。

②国内
今国会で騒動となった森友学園問題、加計学園問題はリベラルが引き金を引いた意図的な「事件」である。まず朝日新聞を始めとするマスメディアで、昨年5月ぐらいから日本会議バッシングが始まった。同時に、政界ではヘイトスピーチ法など、保守派への打撃となる法案が成立。今国会での「テロ等準備罪法案」は、左翼やリベラルに対する牽制という隠れた意味もあったが、今後は憲法改正などをめぐってますます混迷と混乱が起きるだろう。現在のリベラルなメディアや学界には、物事の本質を捉えようという姿勢がない。つまり、相手を批判し、倒すことだけが目的となり、日本らしさや日本人らしさが失われた。

リベラリズムとは、あらゆる価値観を無くし、平等とすることを目的としている。戦後、このリベラリズムの思想を取り入れたのがGHQで、GHQは、憲法改正の議論すら封じ、日本人から自信と誇りを失わせてきた。日本国に対してリベラリズムを取り入れた代表格が、民政局のチャールズ・ケーディスやハーバート・ノーマン(政治顧問)、ゴードン・シロタなどという共産主義者を含む「ニューディーラー」たちであった(国家・社会の弱体化)。

2.リベラリズムの歴史学的・地政学背景と最近の日米のリベラルの傾向

最近の日本では、アメリカと同様、「ポリティカル・コレクトネス(PC)」や「多文化主義」(マルチ・カルチャリズム)、多様な文化的行動を「権力批判」や「国家共同体批判」に結びつける異文化学習(カルチャラル・スタディーズ)が流行している。これらには、「リベラリズム」の概念であるが、隠された狙いがある。

例えば、それぞれ「PC」がネット上で飛び交う「ヘイトスピーチ」、「カルチャラル・スタディーズ」にはマルクス主義の「批判理論」に基づくアカデミズム(学界)による「国家共同体批判」や「マルチ・カルチャリズム」(多文化共生主義)は、水面下で「移民政策推進」や「伝統文化の廃止・衰退」を狙っている。この考え方は、あくまで日本独自のものではなく、欧米の理想主義的な「リベラリズム」が生んだものである。

もともと「PC」は、「あらゆる人種・性別・年齢・文化・宗教・政治指向・性癖などの違いを偏見・差別を含まない表現をしなければならないという考え方と実行」とされる。 日本も最近「PC」の考え方を取り入れ始めたため、ジェンダーフリーやフェミニズムに続くLGBT思想などが発生。逆に国家や社会に大らかさがなくなり、社会全体に「言論統制」に近いような息苦しさを生んでいる。

また、「カルチャラル・スタディーズ」は、「常に国家や共同体は、民衆を監視すると考えられるため、宗教・教育文化を”物”として捉える」という「モノ化」の理論となっている。「マルチ・カルチャリズム」は、文化を並列平等に扱い、「社会や国家にはそれぞれの文化があることは認めない」(「日本人にリベラリズムは必要ない」田中英道著・ビジネス社)という「価値平等」的なものとする。従って、日本の歴史や伝統文化は、ますます「無意味・無価値論化」させるのが、日米ともにリベラリストの最大の狙いとなる。

3.リベラルの「表」と「裏」

表向きは「自由主義」、「平等主義」、「公平(公正)主義」、「啓蒙主義」、「寛容主義」、「多文化主義」、「平和主義」、「進歩主義」
その裏は、「隠れマルクス主義」(田中英道氏)、「偽善主義」、「後退主義」、「二重基準主義」、「奴隷主義」(アンドリュー・ジャクソン第7代合衆国大統領)、「失敗棚上げ主義」、「反国家主義」、「白い暴力革命主義」

4.戦後リベラルの「犠牲」になった勢力

①(確信犯的犠牲者) 朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、テレビ朝日、TBS、NHK、大江健三郎、瀬戸内寂聴、坂本龍一、小森陽一、内田樹、山口二郎、浜矩子、香山リカ、古賀茂明、井上達夫、鳥越俊太郎、福島瑞穂、辻元清美、山尾志桜里、小西洋之、その他多数

②(「未必の故意」(知らず知らずに影響を受けている)犠牲者)
読売新聞、産経新聞など保守系マスメディア、2009年の総選挙で民主党政権に投票した多くの日本国民、長島昭久ら民主党の保守系議員、宏池会などかつて「保守本流」と呼ばれたリベラル派、文科省、宮内庁ら官僚

③ネオ・リベラリスト
菅野完(作家)、橘怜(作家)、古市憲寿、三浦瑠麗、竹中平蔵、橋下徹、ロバート・ケーガン(民主党の元外交顧問)、今井総理秘書官ら周辺はネオ・リベラリスト(新自由主義者)が多い
菅野完(作家)、橘怜(作家)、古市憲寿、三浦瑠麗、竹中平蔵、橋下徹、ロバート・ケーガン(民主党の元外交顧問)、今井総理秘書官ら周辺はネオ・リベラリストが多い。

5.今後の対策

時代的背景で考えると、今後はLGBTなど新しい「PC」が出てくるだろう。単なる「平和主義」や「価値平等主義」は生き残れない。 今後、偏狭で戦後日本的な「リベラル思想」に対しては、徹底的に無視・黙殺するか、日本の歴史や伝統文化に対する探求や普及により、その価値を強めて行くしかない。そのためには、日本らしさや日本人らしさ、その地域の地域らしさから始め、個人に関してもその個人が能力と個性を発揮する限りにおいて、その価値を認め、伸ばしていくしかない。「水平」ではなく、「垂直」の歴史観を取れる日本人が増えていくことが必要である。

山村明義氏プロフィール
1960年熊本県生まれ。早稲田大学卒業後、金融業界誌、雑誌記者を経てフリーランス・ジャーナリストからノンフィクション作家へ。政治・行政・外交ジャンルを中心に、経済、社会、宗教、芸能・スポーツ分野まで幅広く取材・執筆を行い、リベラル思想の退潮を知る。その後、世界のあらゆる思想を比較しても日本の神道思想が優れていることを学んだことをきっかけに神道思想家となる。これまで『外務省 対中国、北朝鮮外交の歪められた真実』(光文社)、『本当はすごい神道』(宝島社新書)、『神道と日本人』(新潮社)、『GHQの日本洗脳-70年続いた支配システムの呪縛から日本を解放せよ』(光文社)『劣化左翼と共産党 SEALDsに教えたい戦前戦後史』(青林堂)、『GHQが洗脳できなかった日本人の「心」』(ベストセラーズ)、『日本をダメにするリベラルの正体』(ビジネス社)など、多数のノンフィクション作品がある。2012年「神道文化賞」(財団法人神道文化会)を受賞。長い伝統と歴史を誇る日本国家と日本人を守ることを目標とする「保守系作家・ジャーナリスト」として活躍中である。



■■■ JOG Wing ■■■ 国際派日本人の情報ファイル ■■■

『麻原彰晃』を育てた左翼リベラル思想(上)

山村明義
■■ 転送歓迎 ■■ No.2793 ■■ H30.07.11 ■■ 7,897部■■
__________
(伊勢雅臣)死刑になった『麻原彰晃』の思想的背景について、当時、家族にまで取材を行った山村明義氏がFacebookに貴重な一文を寄せられているので、許可を得て、ここに転載させていただきます。本稿のタイトルは弊誌でつけたものです。
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 時は村山富市政権下の96年3月、私は米中が対立していた「台湾危機」の取材で、中国のミサイルが上空を飛び交う台湾の金門島から帰国し、以前から熊本県の波野村や松本サリン事件など数多くの事件で注目していたオウム真理教事件の取材に本格的に入った。

私自身、ジャーナリストとしてまだ30代半ばの油が乗り切っていた頃で、「自分はどんな取材でも誰よりも早く、正確に本質を突く記事が書ける」と自負していたからである。

 だが、このオウム真理教事件だけは勝手が違った。地下鉄サリン事件から警察庁長官狙撃事件と続いた凄まじい凶悪犯罪というだけでなく、戦後GHQが特権を与えた新興宗教が絡んだテロ事件であり、かつマスコミや警察、自衛隊ですら内側から食い込まれた日本国家権力の中枢をまさに破壊しようとした大事件だったからだ。

 オウム真理教事件の本質を突くためには、まず麻原の人間性を知る必要があると考えた私は、警視庁が強制捜査に入る前の山梨県上九一色村と、教団の資金源となった熊本県波野村に入り、その後同県八代市の松本智津夫の両親、兄弟ら家族たちに会うことにした。

 父親の本籍を遡ると、原籍には祖父の代から現在の北朝鮮の記載があり、背景と素性に謎が多いのにかかわらず、リベラルメディアは誰もその取材を行っていなかったからだ。運良くあるルートから実家で家族会議が行われるという情報が入り、私ともう一人が同席できた。

 その家族会議の席で飛び交っていたのは、「智津夫は死刑にした方がいい」という言葉であった。すぐ上の三男などは、「死刑にしてもらうように家族が当局(法務省)に頼みに行くべきだ」とまで語っていた。家族でさえ「死刑にした方がいい」と断言した理由は、彼ら自身が松本智津夫自身の行ってきた「業と罪の深さ」を熟知していたからである。

 その後一人だけ家族に食い込んだ私は、1年近くにわたり彼らを取材したが、とりわけ家族内で「松本智津夫に酷似し、最も強い影響を与えた」とされる長男は、話を聞いているうちによく突如として怒り出し、「自民党政権が悪い」「大企業が悪い」などと、日本の政治や社会批判をぶちまけ、その怒りの矛先は日本の国家・社会やメディアにも向けられた。

 事件の数年後に亡くなった父親や長男、三男と交わしたやり取りの記憶は、いまでも私の脳裏や身体にこびりついて離れない。彼らによれば、松本智津夫の政治思想は、完全に「左翼リベラル」で、朝鮮半島に強い愛着を持っていたという。

その一方で、「親父は北朝鮮で誇りある警察官だったから(息子の松本智津夫がオウム真理教事件を起こした)」などと、どう考えても矛盾し、論理が倒錯した内容を説明していた。そのため、その裏を取ろうと、当時の警察官名簿を懸命に調べたが、父親の名前は一切出てこなかった。(以下次号)

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『麻原彰晃』を育てた左翼リベラル思想(下)

山村明義
■■ 転送歓迎 ■■ No.2794 ■■ H30.07.13 ■■ 7,897部■■

 平成の時代に入って立て続けに起きたオウム真理教事件の首謀者・松本智津夫の父親は、果たして本当に北朝鮮の警察官だったのかー?もともとオウム真理教と北朝鮮とは、サリンの原料輸入を担当していた村井秀夫刺殺事件を始めとして、当時から北朝鮮の関与説が濃厚だった。

 一方、松本家の教育思想に関しても、私は徹底的に取材を行った。彼らの教育方針は、基本的には「男尊女卑」や「長幼の序」などという当時の九州に残っていた儒教的なもので、家族で末っ子だった智津夫は、「家庭内て厳しかったその教育方針に激しい憎悪とコンプレックスを併せ持っていた」と家族は口を揃えた。

 それでも、「麻原彰晃」の思想は、実は兄弟ではなく、父親に影響があるのではないかと疑っていた私は、松本家に何度か出入りするうちに、一度だけ家族が居なくなった隙を見て、取材を拒否していた父親の部屋に行き、「戦時中、北朝鮮にいて何をやっていたのか?」「北朝鮮をどう思うか?」と尋ねて見たことがあった。

 だが、父親は極めて不自然な笑いを浮かべ、何も答えようとしなかった。

 私は仕方なく「智津夫を何度も殴って教育した」という教育係の長男に取材先を切り替えたが、長男は「日本は朝鮮に悪いことをした。日本人全員が土下座して謝罪すべきだ」などと、まるで朝日新聞のようなことを言い出した。

私は「その考えは智津夫に教えたのか?」と聞くと、「そうだ。日本という国家は今も昔も完全に悪い。日本が悪かったことを、この俺が智津夫にも何度も教えた」と、戦後日本人の自虐史観と日本国家への批判思想を徹底的に伝授し、「宗教は後でつけられただけだ」と語っていた。

これはあたかも朝鮮半島の「恨」の思想文化のようだったが、こうした話をマスメディアは絶対に取り上げようとはしなかった。

 しかし、彼らはあくまで北朝鮮の「チュチェ思想」や「共産主義革命思想」を学習していたわけではない。その点は何度も問い糾したが、どちらかというと、「反体制」「反権力」という戦後日本に跋扈した「左翼リベラル思想」であり、彼らは日本を守るのではなく、「日本を悪く言うことが正しい」と思い込んでいたのだった。

『麻原彰晃』を育てた思想ー。その正体とは、実は「宗教」でなく、間違いなく「恨」を含めた「左翼リベラル思想」であった。

 1年間、松本智津夫の家族に潜入して取材した結果、私はこれから日本は、いよいよ新興宗教という戦後日本の自由主義と、個人の権利や外国の思想を極限大にまで高める「平等主義」を混ぜ合わせた「左翼リベラル思想」に悩まされることになるだろうーと予測し、その思想に自ら見切りを付けた。

 それから23年が経過したが、現在も日本のマスメディアはその思想背景や真相を国民に明らかにするための取材もせず、言及もしない。マスメディア自身がGHQから有り難く頂いた「戦後日本の左翼リベラル思想」の下に育ち、その恩恵を感じたままの状態で、まったく抜けきれないからだ。

 とりわけ朝日新聞や東京新聞、TBSなどの左翼リベラルメディアは、オウム真理教事件の背景にある松本智津夫死刑囚の思想が、自らの思想と同じ土壌で育ち、瓜二つであることがまるでわかっていない。彼らはあくまでその同質性の高い思想性には見て見ぬ振りをしている。

 すべての取材を終えたとき、私は身体も心も疲弊し切っていた。その疲弊の最大の理由は、戦後日本のマスメディアには、この「戦後最大の凶悪犯罪」と呼ばれるオウム真理教事件で、最も重要な鍵を握る「思想的真相」を解き明かすのは絶対に不可能であるーと確信してしまったからである。

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『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』


はじめに なぜリベラルは「保守」になりたがるのか
 いま、日本を含めて世界中で思想の上での大混乱が起きています。
 その混乱の震源地になっているのは、何と言っても「リベラル」です。
 実際に最近、ネットだけでなく、一般のマスメディアでも、リベラルという人たちの思想や勢力全体への批判がとりわけ増えてきました。
 その内容の代表的なものは、「リベラル嫌い」と「リベラル疲れ」です。
 たとえば保守派の論客といわれる櫻井よしこ氏は、「日本では『リベラル』という言葉はよい意味で使われているかもしれないけれど、アメリカではまったく違うというのだ。「リベラルという表現は、むしろ、愚かな人という意味合いさえ含み始めた。だから皆、いま、自分はリベラルだと言うより、プログレッシブ (進歩的)だと言っている」と友人は語る」(ダイヤモンド・オンライン二〇一六(平成二十八年八月二日号)と語っています。
 実際に、日本国内でもリベラルな言論は説得力を持たなくなり、その年の十一月に行われた米大統領選では、リベラル勢力が圧倒的に多いとされる民主党のヒラリー・クリントン候補が、共和党のドナルド・トランプ氏に「リベラルマスメディア」の予想を完全に覆して、敗北してしまいました。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 はじめに なぜリベラルは「保守」になりたがるのか

 また、これまで「左派系」と言われていた勢力の間でも、「リベラル・ホーク」(リベラルタカ派)とか、「リベラルナショナリズム」と呼ばれるような新しい勢力が増え、国内外で「リベラルだが、愛国心や武装主義」という人たちも出始めています。
 日本でも「絶対的平和主義」とか「一国平和主義」と呼ばれる人たちの数が減り、本来日本国内で有力視されていた「平和主義」という概念は徐々に存在しなくなっています。
 これまでアメリカの建国の理念である「自由」「平等」 「博愛」という「主義」は、力を失い、「正義」や「公正」といった志向性も浸透しているようには感じられません。
 いったい、戦後七〇年安保以降の日本国内では、もっとも隆盛を極めていた昔ながらの「リベラル主義」はどうしてしまったのでしょうか?
 これは国際的にも国内的にも、リベラル主義、あるいはリベラルな人たちが以前のような影響力を持たず、軽視されるようになっただけでなく、世界的に思想が流動化しているということを表しています。
 日本人もきちんと自分の思想を持たないと危ない、と考えるようになった矢先の平成二十八年五月、『日本会議の研究』(菅野完著 扶桑社)が発売されると、「日本会議の批判本」が続々と刊行され始めて、一つのブームになっていました。
 その主張は、そのほとんどが「“極右”である日本会議が、安倍政権を陰で操っている。このままでは日本は危ない」という類いのもので、世に出された出版物は、「リベラル勢力や左翼勢力に対して非常に説得力がある」という高い評価や、極端なものは、「神社本庁が安倍政権を動かしている」という「陰謀論」に近いものも多く存在していました。
 しかし、昔からの保守勢力の実態を知っている人たちにとっては、「日本会議」は真面目にコツコツと保守活動を続ける一つの団体にすぎず、「神社本庁が安倍政権を牛耳っている」などという論調は、荒唐無稽なものでしかありません。
「日本会議がそんなに強ければ、もっととっくの昔に憲法改正など行われているはずだ」
 事実、『日本会議の研究』を始めとする「日本会議の批判本」が続々と刊行され始めた頃、神社本庁の関係者と話し合うと、こんな話題があちこちで上がりました。
 安倍政権に近い多くの自民党議員に聞いても、「昔はともかく、いま安倍総理は日本会議をそんなに重視しているわけではなく、しかも日本会議を遠ざけている議員も少なくない。でも日本会議の個人個人は、そんなに言われているほど悪い人たちではないですよ」と語っています。 また、日本会議の会員の人たちも、「なぜこんなに日本会議だけが狙い撃ちされなければならないのか」と首を傾げていたほどです。
 実際に、日本のほとんどの左派系メディアでは、日本会議を「カルト集団」とか「怨念の集団」などと呼び、「危険な組織」であることをことさら煽り立てています。
 これまで保守系団体の一つである日本会議がどちらかというと閉鎖的で、 「インナーサークル」に見えるかもしれませんが、これほど実態のない話がなぜ出てくるのでしょうか。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 はじめに なぜリベラルは「保守」になりたがるのか

 それは、これまで日本を支えてきたリベラル勢力が衰退をして、混乱し始めたからだと考えるとわかりやすいのです。
 左翼系団体に比べると、日本会議のように日本全国でコツコツと地道に活動している団体は珍しく、その努力に応じて、政治に対してはかなりの影響力を与えるようになったことは事実でしょう。 しかし、左翼やリベラル系の新聞・テレビ・出版などマスコミ人たちが、実際にこう語っているのを私自身何度も聞きました。
「なぜ日本を危険な軍国主義の方向へ導いている安倍政権が、長期政権になっているのかわからない。そういえば、日本会議というおかしなカルト集団らしき組織が安倍政権を支えている。原因は日本会議に違いない」
 ものすごい思い込みと偏見に近い「陰謀論」ですが、よく考えてみれば、仮に万が一日本会議がリベラルな人から指摘されるような「カルト集団」や「秘密結社」であるとしても、いまの日本人はそれを許すのでしょうか? また、これほどまで日本会議を「悪者化」、「誇大視化」させることによって、得をするのはいったい誰なのでしょうか。
 この本を書くようになったきっかけの一つは、そんなリベラル思想の混乱を明かすように出版社の編集者から依頼されたこともありますが、二〇一五(平成二十七)年頃から、「日本会議以外の保守はおかしくなっている」という実情も私自身が見ていたためです。
 確かに、世界的な移民問題や難民問題の影響から、欧米各国にこれまでになかったナショナリズム勢力が生まれ、その動きが今後の潮流になってくることも大きな要因です。
 また国内的にも、「保守政権」といわれた安倍政権が五年以上続いているにもかかわらず、長期政権に対するマスメディアの自省的な分析もなく、「安倍死ね!」などというプラカードを持った「リベラルな平和主義者」の存在は嘲笑の対象となっています。
 本当の問題は、リベラル勢力、あるいはリベラルな勢力や言論がなぜこれほど力を落とし、一般の人の耳に届くような説得力を失ってしまったのか、という点にあるのです。
 のちほど具体的な事例を述べますが、最初に混乱したのは日本のマスメディアや民進党といった政党のリベラル勢力でした。また、教育界や官界、財界人の多くもリベラルな思想を持った日本人も同様です。 しかし、この現状を見ていると、将来の日本人の思想の潮流(思潮)も、現在の対立の過程次第で、大変化する可能性が高くなっています。
 たとえば、欧州で相次いでいる「IS(イスラム国)」によるテロや難民・移民に反対する勢力は、リベラルなメディアからは「ポピュリズム」と呼ばれています。これは「衆愚主義」という批判的意味ですが、自分の国が危機になって、それを心配して国家を立て直そうとしている人たちの思想は、はたして 「衆愚主義」なのでしょうか?
 日本人は、これまで自分たちの思想に対しては、どこかうさん臭いものを感じ、無頓着かつ無思想に近いか、あるいは欧米の思想ならば無批判に受け入れるという態度でした。
 つまり、何も考えない「無思想」であるか、欧米発のリベラルという思想が何となくセンターラインに近く思えるため、「リベラルを走っていれば安全だ」という考えがあった
のでないでしょうか。だからこそ、日本人には、「何となくリベラルであれば良い」、「どちらかというと自分はやや左寄りのリベラルに位置する」などと公言する人たちも多かったと思いますが、これから本文で述べるように、生活や文化、経済においても重要な要素を占めるリベラル思想はダメになっているのです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 はじめに なぜリベラルは「保守」になりたがるのか

 しかし、この「日本人のリベラル思想」そのものが、いまもっとも「危険地帯」になっており、道路にたとえると、もはや「路肩」に近いところに立っているわけです。
 いま、リベラルの存在意義が世界的に問われていることも間違いありません。
 アメリカの「番狂わせ」と呼ばれるトランプ大統領の誕生、イギリスのEU離脱、ヨーロッパの相次ぐテロ事件や移民・難民問題、日本国内の日本会議の批判本などを通して世相を見ていくと、「リベラル崩壊」は、もはや日本人の足下まで来ている、という実態がわかってくるのです。
 そのため、この著書では、リベラルの歴史や思想背景、 最近の世界の政治・社会情勢に焦点を当て、なぜリベラルが没落していくのか、今後日本人は何を目標にすべきかという話も展開してみました。
 いま、世界中のリベラルだけでなく、今後自らが生き残る上で、あるいはビジネスを営んでいく上で、日本人全体の思想の再考が必要となる時代が到来しているのです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 はじめに なぜリベラルは「保守」になりたがるのか

『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』

『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』

『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』


第一章 「リベラル崩壊」後の世界
米大統領選は保守とリベラルの対立
 今年一月二十日、「大統領が変われば、すべてが変わる」といわれている超大国・アメリカで、「大本命」のはずだった民主党のヒラリー・クリントン氏が落選し、ドナルド・トランプ氏が大統領に就任しました。
 そこにはアメリカの「保守」と「リベラル」の鋭い対立があったことは、多くの識者が指摘していますが、表向きはトランプ氏が「強いアメリカを取り戻す」、「アメリカ第一主義」という公約を訴え続けた結果の勝利だったわけです。
 また、「不動産王」であり、「経営者」であるトランプ氏が、選挙対策にマーケティングのノウハウを生かして「白人保守層」に向けて戦略的な選挙戦術を展開していたことは指摘しておかなければなりません。さらに先祖はドイツ系移民である彼が、「選挙公約」としてアメリカへの「イスラム系・ヒスパニック系) 移民・難民の制限」、や「不法移民の強制送還」 などを訴えていた事実も見逃せません。日本ではあまり知られていませんでしたが、それは、民主党・オバマ政権時代のあまりに過剰すぎたリベラルな政策に対する防衛措置でもあったのです。
「リベラル」とは、「寛容性」と「平等性」を重視するあまり、移民・難民の受け入れなど自国民に過度な負担を強い、ひいては国家を弱体化させる「両刃の剣」です。
 たとえば、オバマ大統領時代にアメリカ国内の不法移民は、アメリカ移民政策施設(MPI)によると、約一一三〇万人に増えたといわれています。
 これはアメリカの人口の三・五%ほどですが、このうち犯罪歴のある不法移民は約三〇〇万人と指摘され、不法移民全体の二七%以上にも上ります。民主党政権は、この問題の多くを放置し続けてきたのです。
 また、あとで詳しく述べるように、 「ポリティカル・コレクトネス (政治的正しさ」という不寛容な人権主義による閉鎖社会への反発も起こりました。「ホワイト・ギルド」(白人の罪)という意識をアメリカ人自身に植え付けていた事実は、知らず知らずのうちに「リベラル (平等) 全体主義」的な価値観になってしまっていたということを意味しています。
 アメリカのみならず、ヨーロッパ、そして日本でも、このリベラルという名の「絶対的平等価値観」が席巻し、戦後長らく反論を許しませんでした。現在では移民問題がよい例ですが、相手がいかなる立場であろうと、移民制限を行うものは、「排外主義者」や「レイシスト(人種差別主義者)」という汚名を着せるのです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 第一章 「リベラル崩壊」後の世界 米大統領選は保守とリベラルの対立

 しかしながら、欧米発のリベラル思想の実態は、「反国家主義」でした。国家全体としての国益よりも、個人の自由や平等、人権に重きをおく。ところが、いざ国家が弱体化し個人中心の社会になると結局はその個人の力も弱まるのです。
 世界的な「移民反対」の潮流が、イギリスのEU離脱やトランプ大統領を誕生させた要因になったのはいうまでもありませんが、これは裏を返せば「国民国家の復権」でしょう。
 反移民は国家と国民を守るために、当然の政治判断であるにもかかわらず、リベラルは「ヘイトスピーチ」とか「排外主義」だと批判してきました。
 先述の通り、彼らの主張はあまりにも過度でありすぎたため、多くの先住アメリカ国民の反発を招きました。
 欧州でも、たとえばドイツのメルケル首相のように、移民を二〇〇万人以上移住させるという政策を採れば、その反動が出るのは当たり前です。

隠れトランプ派はリベラル・メディアが生んだ
 日本時間の十一月九日、私はCNNの米大統領選開票速報を観ていました。
 しかし、どう観ても共和党のドナルド・トランプ氏がフロリダ、オハイオなどの「接戦区」で優勢に進め、続々と勝利していました。
 午後三時現在でトランプ氏の勝利はほぼ間違いなく、「ニューヨーク・タイムズ」やCNNなどアメリカのリベラル・メディア、それに従順な日本のマスメディアは、ヒラリー・クリントンの「圧勝」を予想していただけに、もはや「顔色真っ青」の状況でした。
 ヒラリー氏を推すリベラル・メディアは、ローカルテレビ局の一つのCMのためにポンと四億円を支払うような潤沢な資金力があったこと、さらに世界から集まる移民層からの支持が圧倒的に多いと見て、「ヒラリー有利は動かしがたい」と読み違えていました。
 実際には、アメリカや日本のメディアがどんなに叩いても、トランプ氏は最後まで屈することはなかったし、移民層の票にしても、黒人や白人系など昔から入って来ていた先住移民と、イスラム系や中国系、ヒスパニック系などの新興移民とでは、水面下で対立していました。リベラル陣営が「アメリカは移民の国で、そこに住む市民は平等である」と喧伝しても、実態はそうではなかったことを物語っています。
 たとえば、新興移民であるムスリム(イスラム教徒) への過剰な配慮が、白人差別である「ホワイト・ギルド」への意識変化となり、保守的な白人たちは自分たちの意見を主張できないという異常な事態に追い込まれていました。
 全米の街には「サンクチュアリ・シティ」(エスニシティとも呼ばれる)といわれる、特定の移民だけが自分たちの言葉と文化を守るために作った一帯が増えました。 直訳すれば「聖域都市」になる「サンクチュアリ・シティ」では、英語が通用しない場合さえあります。
 これはもともとスコットランド人やフランス人の移民から始まりましたが、いまやサンフランシスコやシカゴなどの大都市には、イスラム系住民や中国・韓国などアジア系住民の住むサンクチャリ・シティも誕生しました。しかし、移民の独善性、横暴性があまりに強すぎるため、先に住んでいた白人移民たちとさまざまな軋轢を起こす。あとから来た移民がもし略奪や暴行など勝手なことをすれば、面白くないのは当たり前の話なのです。しかもホワイト・ギルドにより白人たちはまともに反論することも許されませんでした。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 隠れトランプ派はリベラル・メディアが生んだ

 この不満層が「隠れトランプ派」の正体でした。
 そうした背景があったことを一切報じない日本のマスコミは、「アメリカのリベラル・メディアの単なる下請け産業である」と率直に指摘しておかなければなりません。

リベラル崩壊は世界の潮流
 さて、今回の状況を一言でいうと、これまでアメリカ国家社会を支配していた「リベラルの崩壊」を意味しています。
 アメリカの本当の「自由主義」と「偽善的平等主義」を履き違え移民を無条件に賛成するムード。「LGBT」など数々の人権政策を打ち上げる「ネオ・リベラリズム」と、市場原理主義によって富を自らの周辺だけに集中させる「新自由主義」の強大な層。そのようなリベラル全体の支持層に支えられたヒラリー・クリントン氏では、やはり「アメリカらしさがなくなる」と、アメリカ国民は深刻に考えているということが見て取れるからです。
 この「トランプ勝利」に見る「リベラル崩壊現象」は、これから疑いなく世界的な現象になる、と私は見ています。
 なぜなら、現在のリベラルとは、アメリカ合衆国建国以来の「国を担う責任と義務の伴う自由主義」ではなく、「単に保守主義者を差別主義者”などと罵りながら、実際には自分個人の利権しか考えない偽善主義者」になり果てているからです。
 いま、この潮流は、さすがに耐えきれなくなって、移民制限策などを開始した欧州全域でも始まり、「移民・難民は誰でも受け入れる」という「博愛平等型」のリベラル主義も、終焉の方向に向かっていることは明らかです。
 日本国内でも、日本の国家を愛し、自らの地域の生活を守ろうと地道に活動する日本人を「ヘイトスピーチを行う排外主義者」などと罵りながら、自らは日本の国益のために何もしない「口だけリベラル」な人たちは、「反トランプ」にならざるをえないのです。
 ところで、大統領選の選挙戦では、当日の午前中からトランプ氏の優勢になった情勢は、夕方五時頃、勝利が確定しました。
 ヒラリー・クリントン氏のように、いかに豊富な資金力があっても、それだけではダメなのです。 さすがに、自分の国や地域を守り、地道に生きて行こうとする保守的な人たちを軽視しすぎたのでしょう。 リベラルな人たちは、彼らのことを 「人種差別主義者」とか「ポピュリスト」などと呼んでいましたが、これも自分たちの主張をハッキリさせる政治的思想が対立したまま、落としどころがなくなった結果だといえるでしょう。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 リベラル崩壊は世界の潮流

 理想論だけで足元の現実を伴わず、責任が取れない。あるいは、自分の言っていることとやっていることが異なるタブルスタンダード。嘘や欺瞞が多く、見せかけだけの「リベラルによる支配世界」は、もはや国内外で同時並行して「終了」し始めているというべきです。
 世界的にあまりにもリベラルすぎる主張が、いまや嫌われ始めたわけです。
 ほとんどのメディアがクリントン支持を表明する中で、保守系の「ブレイトバート」 紙だけは一貫してトランプ支持を貫き、のちに同社の会長であるスティーブ・バノン氏が、トランプ政権の首席戦略官に任命されると、リベラルの怒りにより拍車がかかりました。なぜならバノン氏はリベラリストに「白人至上主義者」と呼ばれていたからです。
 民主党のヒラリー・クリントン候補を支援した「二重のリベラル勢力」が、全米各地で「反トランプデモ」や一部では激しい暴動を起こし、一月二〇日の大統領就任式でも多くの逮捕者を出しました。中には、ジョージ・ソロスのような大富豪もいました。民主党のリベラルな支持者たちは、よほどトランプ新大統領誕生が許せなかったのでしょう。 「トランプは私たちの大統領ではない」、「愛は憎しみを超える」などとトランプ氏を批判しながらデモを行う人々は、選挙スローガンを使った「保守主義者」を攻撃の的としていました。 アメリカ国内の「リベラル陣営」にとっては、トランプ大統領の誕生は、まさに「悪夢の革命」だったわけです。

言論の自由の国の末路
 アメリカ民主党のリベラルの崩壊は、今回と以前の大統領選の一般投票の得票数を見るとよくわかります。 二〇〇八年の選挙では、バラク・オバマ大統領が約六九五〇万票獲得し当選しましたが、その四年後の一二年の選挙では約六五九二万票、今回「初の女性大統領」を目指したヒラリー・クリントン氏は、約六五八四万票に終わりました。オバマ大統領の在任八年間で、約三七〇万票近く減らし、凋落傾向です。
 一方、共和党は同じく八年間で約五九九五万票(ジョン・マケイン氏落選) →約六〇九三万票(ミット・ロムニー氏落選)→約六二九八万票(トランプ氏当選)と、実は徐々に増やしているのです。
 要は、アメリカ国内のリベラルが自壊・自滅したということなのです。
 アメリカのリベラルな報道で知られるマスメディアは、自ら支持する大統領候補を推すのが慣例ですが、今回はアメリカ国内の新聞一〇〇紙のうち、「クリントン支持」を表明したのは半数を超える五七紙で、「トランプ支持」を表明したのはわずか二紙のみでした。
 たとえば、アメリカのリベラル・メディアを象徴する「ニューヨーク・タイムズ」紙はこう書いています。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 言論の自由の国の末路

「ニューヨークが現実の世界ではないことに改めて気づかされた」
 彼らは地方に住む隠れトランプ派など、米国民の「怒りの声」にもっと耳を傾けるべきだった――というのですが、リベラル陣営がいかに思い上がりを持っていたのかを表しています。
 また、リベラルな報道内容で有名なCNNテレビは、最終日まで「クリントン優勢」の姿勢を崩さず、トランプ氏の勝利が確定的になると、コメンテーターたちは、「いったい(我々の)何が間違ったのか」と声を震わせていたほどです。
 今回の選挙中、「アメリカ・ファースト」 (アメリカ第一主義)を常に主張する白人のトランプ氏に対して、アメリカのマスメディアが率先して「人種差別主義者」とか「暴言王」と糾弾していました。 彼らは、本気でアメリカのエスタブリッシュメントの世界から追い落とそうとしていました。 全米のマスメディアで 「ヒラリー支持」 のキャンペーンが展開され、彼女の勝利を「確信」していたからです。必然的に選挙戦が終わると、ほとんどのリベラル陣営からは「なぜトランプが大統領になるのか」という悲鳴が上がりました。
 それと同時に、日本のマスメディアもそれに追従し、まるでアメリカメディアの「下請け産業」のような報道を行っていました。アメリカのマスメディアをそのまま「コピペ」するかのように、トランプ氏の発言を単に「失言」とか「暴言」と報じ、一方的な「女性差別問題」や「スキャンダル」と日本国民にもバイアス (偏向情報) をかけて受け取らせるということもありました。私自身、日本の多くのマスコミの人間にアメリカ大統領選の予想を聞きましたが、「ヒラリーが一〇〇%勝つ」などと自信満々に語っていた人もいたほどです。 この間違いの原因は政治的情報にバイアス(偏見)があるということです。
 また、リベラルなメディアは、これを「分裂」「断絶」と報じますが、彼らは歴史に学ぼうとしていません。
 約二四〇年前の建国時から始まった連邦制国家であるアメリカ大統領選は、一八六一年に「奴隷制」をめぐって起きた南北戦争で北軍についた共和党と南軍についた民主党による「二大政党」の戦いが基本です。 主に民主党と共和党が戦い、選挙が終わったら共にアメリカ合衆国を支えることも慣習となっています。 現在も過去も、二〇〇四年に当選した共和党のジョージ・J・ブッシュ大統領のように、一般有権者の総得票数が相手候補を下回ったとしても、選挙人で多く勝利すれば、大統領選に当選するのが決まりなのです。
 ところが、周知のように、今回の大統領選のキャンペーンは当初から最後まで「断絶」、あるいは「醜悪なもの」として、全世界中に映ったのは間違いありません。
 トランプ陣営は、「軽率で無謀で嘘つき――ヒラリーには国を任せられない」という文字の入ったヒラリー陣営に対するネガティブなCMをテレビ局で流しました。
 逆にヒラリー氏陣営は「女性に敬意は?」と問うシーンから、トランプ氏自身の「持っているとは思えない」という別のシーンのコメントを被せ、あからさまな「敵意」と「憎悪」で返していました。その誹謗中傷合戦は、日本人のみならず、戦後世界が憧れた「言論の自由の国の末路」を疑わせるのに十分な選挙戦でした。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 言論の自由の国の末路

 つまり、トランプ大統領がメキシコのヒスパニック系の移民やイスラム系移民を「差別」すれば、ヒラリー陣営は結果的に白人やキリスト教を差別するという具合ですから、両陣営共に「人種差別的」で「排他的」な「ヘイトクライム」の応酬だったのです。
 これを事前に計算し、先手を打っていたのがトランプ陣営だったとすれば、民主党の「リベラル陣営」の目標と狙いは、今回の大統領選でトランプ陣営に見事なまでに「粉砕」され、「崩壊」させられたと言えるでしょう。
 そして今年一月十一日には、トランプ氏が大統領選後初の記者会見を行い、リベラル・メディアでトランプ批判の急先鋒に立っていたCNNテレビがやり玉に挙がりました。
 CNNの記者側が、ロシアのプーチン大統領が行ったとされる民主党のヒラリー陣営へのサイバー攻撃の一件で、 「プーチンはあなたを助けるために、サイバー攻撃を行ったのではないか」などと批判を強めたのに対し、トランプ氏側は「プーチン氏が私を好んでいるとすれば、それは財産だ」などと言い返し、「(CNNは) 嘘テレビだ」と断じました。
 収拾不能になってきたトランプ新大統領とリベラル派との戦いは、「言論もはや戦」の域を完全に超えています。CNNは、「保守とリベラルの戦いではない」と否定しますが、これを「思想の混乱」と呼ばずに、何と呼ぶのでしょうか。

マイノリティや弱者が常に正しい恐怖の「ポリティカル・コレクトネス」
実際、リベラル陣営は、「自業自得」、あるいは「自縄自縛」の状況に陥っていました。なぜなら、彼らは、これまで一貫して自分たちの正しさだけを証明しようと、「ポリティカル・コレクトネス」(PC)を主張して来たからです。
「ポリティカル・コレクトネス」とは、「差別や偏見」に基づいた表現を 「政治的に公正」なものに是正する考え方のことです。 主に人種や性別、性的志向、身体障害に関わる認識から「差別」をなくすことを指します。
 この風潮は、六〇年代の公民権運動や女性解放(のちのジェンダーフリー) 運動、ゲイ解放(のちのLGBT運動) など 「差別是正運動」の中で起こり徐々に浸透して行き、いまやアメリカ社会全体に広がりました。ちなみにこの意見は、ヒラリー・クリントン氏の民主党を支持した人たちに大変多く見られるものです。
 このリベラル支持者たちの多くは、「マイノリティや弱者が常に正しい」という原理主義」や「無謬主義」 に囚われがちなので、それが逆に弱点となります。
 さらに、政治思想的なリベラルは「過激化」していくのが常です。
 たとえば、共和党支持者の多くが支持する「銃規制」やリベラル派には反対が圧倒的な「妊娠中絶」を始め、労働者の「同一賃金」、国民の「医療保険改革 (オバマケア)」、「(メキシコとの国境の壁」、「同性婚」や「LGBTの養子縁組を行う権利」など、明らかに国民の意見が二分すると思われる問題に対して、 「マイノリティは政治的に正しい」と考える方向へ人々を傾け、「ほとんど無条件にリベラル化する」という結論になります。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 マイノリティや弱者が常に正しい恐怖の「ポリティカル・コレクトネス」

 それが「政治的に正しい」と捉え、自ずと「PC」はトランプ自身の保守的な思想や発言に向けられたわけです。リベラルにとって見れば、トランプ氏の言動は、たとえ「古き良きアメリカ人の本音」であっても、人種や性別に対する「差別」そのものなのです。
 たとえば、トランプ氏は「メキシコ国境に壁を作る」という主張をしました。
 しかし、オバマ政権時代にはメキシコ国境などを越えて来る約一一〇〇万人以上いると言われる不法移民に対し、一部は本国へ送還させていたものの、基本的には移民に入国を許し、たとえ彼らが犯罪を起こそうと、結果的には寛容な政策を敷いていました。
 それを批判する人間がいれば、とたんに「人種差別主義者(レイシスト)」と批判されるのです。しかも、トランプ氏自身は、「不法移民がすべて麻薬密売人や強姦魔と決めつけているわけではない。ほとんどが真面目な働き者で、アメリカで働いてチャンスを掴みたいと思っている。しかし、不法移民の一部に犯罪者が含まれているのは事実であり、野放図にアメリカに入れ続けるのはやめるべきだ」(『THE TRUMP 傷ついたアメリカ 最強の切り札』)と事実を語っているにもかかわらずです。
 彼らにとっては、少しでもリベラルの「正義論」からはずれる移民や難民をアメリカ国民や市民と区別するのは、「差別」そのものになるわけです。
 こうしてリベラルなマスコミは、トランプ氏の発言を切り取り、面白おかしくするだけで、もっとも重要な「国を守る」部分を報じませんでした。
 それもそのはず、アメリカの代表的通信社であるAP通信社の発行する記者の手引書『スタイルブック』には、 「illegal immigrant (不法移民)」という言葉と、 「islamist(イスラム教徒)」という言葉を「報道で使わない方が良い言葉」として明確に位置づけているのです。
 ほかにもアメリカメディアには、表現上の制限が多すぎます。

他宗教への配慮でクリスマス・パーティーさえ開けない
 アメリカのメディアは「真実」を報じないのではありません。 これまで「悪平等的なリベラル」な風潮と、実際にマスメディアを監視するリベラル勢力の力によって自縄自縛となり、「真実」を報じられなかったのです。
 ほかにも「PC」では、普通のアメリカ人が祝うイエス・キリスト生誕日を表すクリスマスのような祝日では、イスラム教など他の宗教の信者に配慮して、公には「メリー・クリスマス」とは祝えなくなったといわれています。 アメリカ国内の公共機関や民間企業でも、クリスマス・パーティーはなかなか開けません。 「イスラム教徒」に配慮して、ミネソタ大学では「9・11」の黙とうを中止しました。 最近日本で流行しているハロウィーンですら難しいとされ、「アメリカでハロウィーン・パーティーが開けなくなったために、日本でひと儲けしよう」と企んだ広告代理店が、日本に持ってきたという話もあるほどです。また、表現方法として、アメリカ国内で使われていた犬や猫などの「ペット」は、リベラル陣営では、「コンパニオン・アニマル」と呼ぶ人もいるといわれています。つまり、リベラルは、国家や社会、人間相手だけでなく、動物相手にも 「差別」という概念を用い始めているわけです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 他宗教への配慮でクリスマス・パーティーさえ開けない

 しかし、「PC」を過度に、あるいは厳密に適用すると、単なる「言葉狩り」になりかねず、 息苦しい閉塞感のある社会となってしまいます。
 このように、トランプ大統領が誕生するまでのアメリカは、文字通り「不自由社会」になっていたのです。
 しかし、建国時の 「アメリカ独立宣言」には「自由・平等・人権」が書かれ、その後できた合衆国憲法修正第二条には「表現の自由」が保障されているのです。
 自らが「行き過ぎ」という感覚もなくなると、このアメリカ建国の理念に反するだけでなくとくに白人やキリスト教徒にとっては息を詰まらせることになります。

家族解体とジェンダーフリー
 それだけではありません。教条的なリベラリストは、「家族の解体」を目指し、歴史認識では「自虐史観」を植え付けようとします。 自らが「国家や社会の犠牲者である」と装うことで、相手への「水平な逆差別」を優位な立場で「社会実験」を試みようとするのです。
 そして、「リベラル以外の政治的な言葉や思想」を目の敵にし、「高い地位にある政治家攻撃し」を行い、自らに都合の良い「平等な社会」を創り上げようとして、実際には自らの国家や社会に対する「ディスカウント」を行おうとしています。
 象徴的なのは、二〇一三年四月にカルフォルニア州の民主党への政治献金を呼びかける集会で、オバマ大統領が女性司法長官のカマラ・ハリス氏に対して、「米国の司法長官としては抜群の美人」と語り、それがリベラルな国内のフェミニズム団体から「女性差別」を問題視され、謝罪に追い込まれたことでした。
 長官カマラ・ハリス氏を「抜群の美人」と評したことで、その二日後に「自らの発言が不要な混乱を招いた」として、ハリス氏に謝罪しました。
 オバマ氏には四日、同州で催された与党民主党の全国委員会への政治献金を呼び掛ける集会に出席したさいの発言に対し、「性差別主義」「女性を容姿で判断する」などの批判が米メディアで出ていました。その前にアメリカのフェミニズム団体の抗議がホワイトハウスに行われたということでした。オバマ氏はワシントンに戻った四日夜、ハリス氏に電話し、謝罪したといいます。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 家族解体とジェンダーフリー

 一方、ミシェル米大統領夫人は四日、米東部バーモント州のCNN系列局との会見で、自分を「多忙なシングルマザー」と言う場面があり、これも釈明に追われました。
 CNNなどリベラル・メディアは、この発言に鬼の首を取ったかのように騒ぎ立て、「多忙な両親が健康的な食生活を送る必要性に触れたさいの失言」と断じています。 ミシェル夫人は、後に「シングル」との言葉を使うべきではなく、「多忙な母親」と表現すべきだったと訂正した上で、「夫が大統領だとときどき、自分が少しだけシングルと感じるときがある」と弁明したとCNNは指摘しますが、これは日本語でいえば「諧謔」でしょう。
 このように、諧謔というユーモアが封じられたアメリカでは大統領がオバマ氏のように、たとえリベラルな人物であってもマスメディアやリベラルな団体がそれを許さないのです。
 この「女性差別問題」は、「PC」の重要な要素であり、アメリカ大統領までそれを武器に 「脅迫」をして謝罪させることも行うのです。 これこそが欧米発の「ネオ・リベラリズム」の正体なのです。
 しかし、二〇一五年八月、トランプ氏が登場し、共和党候補者討論会でこう言い放ちました。
「アメリカの抱える大きな問題は、ポリティカル・コレクトネスだと思う」
 このトランプ氏の一言で、多くのアメリカ人は拍手喝采し、溜飲を下げました。本当に「PC」がアメリカ社会を分断し、おかしくしていたからです。
 そして、アメリカ社会の「偽善的なリベラル」と「正直に真実を言う保守」とに色分けがされ、「古き良きアメリカ」を愛する人たちの心を掴んでしまったのです。
 それでもアメリカのマスメディアは、そのようなアメリカの本当の問題についてふれません。「自由の国、アメリカ」であるならば、本来は、選挙戦の前に世界の誰かが、全世界に醜態をさらすアメリカのリベラルに対して、「フェアではない」と指摘するべきでした。
 事実、アメリカのリベラル派は今回の大統領選の自らの敗北を潔く認めず、敗けた責任さえ取っていないのです。実際に、CNNやABCなどアメリカの選挙後の報道を見ても、「リベラルが行き過ぎた」という内容は、ほとんど見られませんでした。
 むしろ、「FBIのコーミー長官の再捜査発言が悪かった」、「世論調査がおかしかった」などという「責任転嫁」が目立ちました。この責任転嫁もまた、「リベラルの得意技」なのです。
 ちなみに、日本では「アメリカから遅れて一〇年すると、その政策やブームがやって来る」と言われていました。 実際に、五〇年代のアメリカ民主主義、六〇年代のベビーブーマー、反戦平和主義、フェミニズムやLGBT、経済社会のコンプライアンスなど、アメリカで起きたことのほとんどを日本人が追従しています。 リベラルもそうです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 家族解体とジェンダーフリー

 しかし、日本はいったいいつまでアメリカの真似をするだけなのでしょうか。
 現在のアメリカと日本の抱えるもっとも大きな問題は、アメリカのリベラリストたちが世界中に「啓蒙」する 「政治的正しさ」なのです。
 アメリカ国内で言えば、「リベラル派」が過剰に偏向した物差しで、「自由」で「寛容」な「アメリカ人の伝統」に離反しているため、世界中が不安視し、日本にもその真似をしようとしているリベラル人が大勢いることが問題なのです。
 移民問題や難民問題に関してはのちに詳しく述べますが、イギリスだけでなくフランスやドイツなど、多くの国でリベラルの「平等主義」を重視しすぎて、どの国も困り果てています。移民や難民によるテロや犯罪は、どの国も共通するテーマなのです。これは政治思想的には、欧米社会のリベラル派が「平等主義」と「民主主義」をはき違えてしまい、「リベラル政治的路線は正しかった」という「自己満足性」の動かぬ証拠でしょう。
 アメリカの「自由主義」は、国内のリベラル勢力によって、いまや世界各国は閉塞感ばかりの「平等主義」へと移行し、それが自らの国家の首を絞めてきました。
 日本はそのリベラルの真似をしてはいけません。
 その意味で、トランプ米大統領の登場は、日本だけでなく世界中で自国の安全保障を考える良い機会となり、最終的にはこれまでの自国での過度なリベラリズムを終焉させる可能性が高いのです。

自らの言動に一切責任を取らないリベラル
 アメリカ大統領選で、トランプ大統領当選の結果を当てられなかったことに対して、謝罪をしないどころか、完全に開き直って責任を取らないリベラルな人々が続出しました。
 これは日米共に同じで、先ほど述べたように、「トランプは一〇〇%大統領になれない」、「人種差別のトランプは無理に決まっている」と口々に語っていました。
 言論人であれば自分が公に口に出した以上は、責任を取らなければなりません。
 しかし、アメリカ国内のリベラル派でそれを主張して、きちんと責任を取ったのはほんのわずかでした。
 私の知るかぎり、CNNに出演をして「ヒラリー候補優勢」を断言したある統計学者が、「もしトランプが大統領になったら、虫を食べます」と言っていたため、「蜂蜜漬けのおいしい虫を食べた」ということぐらいでした。
 一般のアメリカ人でも、 「トランプが大統領になったら外国に移住する」と宣言していたセレブがいて、それを保守派が攻撃するという構図が続いていました。
 たとえばヒラリー・クリントン氏の絶大なる支持者でリベラルを標榜するレナ・ダナム氏は、「トランプが勝ったらバンクーバーに引っ越す。あそこには素敵なところがいっぱいあると知っているし、仕事もできる(から移住する)」と語っていました。そこで、先に登場したスティーブン・バノン氏が会長を務める保守系ニュースサイト「ブレイトバート」の編集者であるミノ・ヤンノポーロス氏は、そんなセレブのフェイスブックに、「レナ・ダナムのために、来週出発の、カナダ行き片道ファーストクラスを予約してくれと、旅行会社に頼んだところさ」と投稿していました。さらに、ヤンノポーロス氏は、「ブレイトバート」の記事の中で、「トロントでなくても、カナダの中ならどの都市を選んでくれても良いし、お金は自分が払う」とコメントしていました。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 自らの言動に一切責任を取らないリベラル

 そしてダノム氏は大統領選が終わって一週間以上経っても、「移住する」といいながら、その後、引っ越す気配を見せていませんでした。
 ちなみに、ヤンノポーロス氏は、この夏、「ゴーストバスターズ」のレスリー・ジョーンズ氏に対するさまざまな「人種差別や女性差別」 のツイートを送り、ツイッターから出入り禁止になった人物である、と逆に批判されてしまったのです。
 ところが、ヤンノポーロス氏には三万人以上のフォロワーがおり、この投稿にも現段階で二万人以上がこの「リベラル批判」のコメントには「いいね」を押していました。
 こうしてアメリカでも、「リベラル」のおかしさが次々に暴露されていったのです。
「万一、トランプが勝った場合のために、もうスペインに家も買っているのよ」
「トランプが勝ったら海外に移住すると言っているセレブリティはたくさんいるけれど、どうせやらないでしょう。でも私は、本当にやるから」と語っていたコメディアンのチェルシー・ハンドラー氏は、自らの番組で、涙ながらに、「いま、本当にスペインに引っ越したいの。でも私のオフィスのスタッフ全員に、「あなたの声はみんなに届くんです。 あなたはここにいないとダメなんです』と言われたの」と、アメリカにとどまることにした理由を述べていました。
 やはり「もしトランプになったら海外に引っ越す。私は本気じゃないことは言わないわ」と宣言していたマイリー・サイラス氏も、ツイッターに投稿したビデオで、「私はバーニー・サンダースを熱心に支持していた。そしてヒラリーも。 彼女は本当にこの国を愛している。彼女はこの国を良くするために全人生を捧げてきたの」と涙を流しながら語りました。
 そしてサイラス氏は、「私はみんなのことを受け入れる。ドナルド・トランプ、 あなたのことも受け入れます。アメリカの大統領としても。 私は希望を持ちたいから。 希望にあふれるヒッピーでありたいから」と自らの寛容さを見せ始めたそうです。
 この一連の「症状」こそ、リベラルの典型的な言動の特徴なのです。つまり、自分の思い通りにならないと、自分のことは棚に上げて大騒ぎをして見せ、最終的には何とか受け入れようとします。 これはリベラルな人たちが他人に寛容でありたいと考えているからで、自分が自分の気持ちに「嘘」をついているということを明かしません。
 ブライアン・クランストン氏も、「ショックだし、すごくがっかりしているが、大統領に選ばれた彼が、傷ついたこの国を一つにしようとしてくれることを願っている。心から彼の成功をお祈りします」とツイートしました。彼は、選挙前、カナダのメディアのインタビューで、質問者に「もしトランプが大統領になったら、カナダで長い休暇を取りたいと思いますか」と聞かれ、「もちろん。でも休暇じゃないよ。 引っ越すよ。そうなるとは思えないけど。そうならないことを願う」と答えていたのです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 自らの言動に一切責任を取らないリベラル

 BBCのインタビューで、「スペイン語はできないけれど、トランプが大統領になったらスペインに引っ越すわ」と語ったエイミー・シューマー氏は、後になって「あれはただのおふざけ」と言い訳しています。 インスタグラムへの投稿で、彼女は、「ロンドンでのインタビューだったし、ノリよ。 ニュースにするようなことじゃなかったの。『さあ、荷造りして出て行ってください』という人は、あの人種差別者でゲイ差別者で女性蔑視の男に投票した人たちと同じくらい腐っているわ」と書きました。
 さらに、「トランプに投票した人たちへ。あなたたちは弱者よ。あなたたちは間違った情報を信じていて、正しい情報を求めようともしなかった。(中略) いま、あなたたちの望みがかなったわけで、どうなるか見えてくるわよ。文字通りにね。 私は怒りに燃えている」と、投票者を非難するコメントを続けているといいます。
 これなど、客観的に見て責任転嫁の何ものでもありません。
 アメリカでは、「このようなきれいごとの発言をしていたセレブ、あるいはリベラルな人々は、こう物笑いの種にされていたのです。
 たとえば、ツイッターには「エイミー・シューマー、マイリー・サイラス、もう飛行機のチケットは押さえましたか? 荷造りのお手伝いをしましょうか?」、「『トランプは私の大統領じゃない』人たちがやって来るのが嫌で、カナダが壁を作ろうとしているという噂があるそうです」などのコメントが見られました。
 カナダが壁を作るかどうかはともかく、これはリベラル派たちが移民・難民の「壁」を作るのに反対しているのは、「自分たちが移民や難民をするときに反対されるのが嫌だからだ」という痛烈な皮肉です。結局、彼らは口では良いことばかりを言うものの、いざとなれば何もできないことをバカにされているわけです。そういう人々は、ハリウッドのリベラルなエンターテイメント業界人や役者、音楽家など大勢いました。
 こういう状況を「アメリカの断絶」と呼ぶのなら、その責任の一端はリベラル側にもあるはずです。
 何より大事なのは次章から詳しく述べるように、世界中が思想の世界でリベラルの牙城が崩れ始めて大混乱を起こしていることです。その影響は欧州や日本にも当然及んでいるのです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 自らの言動に一切責任を取らないリベラル


第三章 日本会議バッシングの未露
すぐ分裂するのが保守の弱点

 そんな中、地道に活動を行い続けることで、頭角を現したのは、「日本文化チャンネル桜」(以後「チャンネル桜」(政治団体としては「頑張れ日本!全国行動委員会」)でした。
 チャンネル桜は、平成十六(二〇〇四)年に設立された水島総氏が代表取締役を務める番組制作会社で、一時期は保守論壇全体を引っ張っていくような勢いがありました。
 水島氏は静岡県生まれで、現在も「保守主義者をけん引した第一人者」という評価がある一方、現実の政治運動から縁遠いはずのTV監督出身でした。
 私自身、一時期はチャンネル桜に年間五〇回近く出演し、内側からそれを見てきましたが如実に表れた一つの現象が、平成二十五(二〇一三) 年の憲政史家の倉山満氏と水島氏の「消費税論争」のときでした。いまでは消費税増税は、「その後の景気を悪化させ、デフレから戻らなくなった」という評価がされています。しかし、当時は財務省を中心とする消費税増税路線は、経済界やマスメディアを含めて圧倒的に優勢でした。
 当然、安倍総理の状況は苦渋に満ちたものでしたが、保守派も議論が大きく割れました。倉山氏はあくまで増税反対を押し通しましたが、水島氏は当初増税には消極的だったものの、なぜか途中で反対の言動を取りやめてしまったと見られたため、それをきっかけに、二人は決裂してしまいました。
 驚いたのは、水島氏の周囲に対する攻撃と切り方です。 チャンネル桜のオピニオン誌である「言志」の編集者で評論家の小川寛大氏によれば、水島氏は倉山氏だけでなく、私に対しても「山村は切れ、切れ」と怒鳴っていたそうです。私だけではなく、ほかにも多くの保守論壇の人間が「保守分裂」のあおりを受けていました。
 いま振り返ってみると、「保守分裂」にはいくつもの原因がありました。
 平成二十五年秋の「消費税論争」は、明らかに保守同士の 「思想戦」の構図でしたが、一つは、「保守陣営は、政治的に安倍総理ならば何でも支持するのか」という論点でした。
 保守自らが支持する安倍総理が消費税を上げた場合、それに従うべきか従うべきではないのか。それが「分裂」のきっかけとなったわけです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 すぐ分裂するのが保守の弱点

 当時、消費税に関して国民の多くは、「消費税は将来の年金や医療費など社会保障費に使われれば、引き上げても構わないのではないか」と何となく考えていました。
 しかしその一方で、橋本龍太郎内閣の平成九(一九九七)年の例を見ても、「財務省の言う通りに消費税を引き上げれば、不況に陥って国民の消費は悪くなり、政治は混乱して結果的に国民に不況がはね返ってくる」という有力な考え方もあったのです。その背景には、戦後国民の多くがリベラルであり、「国の借金や福祉や社会保障には、消費税は必要だ」という思想に傾きやすいことがあります。
 私自身のスタンスは、当時の財務省の木下康司事務次官らが国民に対するほとんど説得力のある根拠もないままに、「消費税を上げても景気はまた戻る」という極めて楽天的な分析で増税路線に走っている以上、保守派は反対を貫きとおすのが筋である一方で、「これは『政策論』だから保守が分裂しても、後遺症が残る」という考え方でした。
 結果的には安倍総理は、消費税の増税を見送ったわけですが、これはいまだによい決断だった、と経済の専門家からも評価されています。
 確かに一時期私は、水島氏と倉山氏の仲介にも入ろうと思いましたが、水島氏側近からは、「倉山氏を切れば番組にまた出させてやる」、「まずは倉山氏を切れ」などと直接言われ、こちらからお断りすることにしました。以後は、チャンネル桜には一切出演をしておらず、今後どう頼まれても、チャンネル桜に出演することはないでしょう。
 私はその当時から、「こういう人の切り方をする人はまた同じことをするだろうな」と考えていましたが、平成二十六 (二〇一四)年二月に行われた都知事選以降にも同じ構図の出来事が起こりました。 水島氏とその周辺は、都知事選のときに出馬した田母神俊雄氏を「横領罪」「公職選挙法」に違反するとして、東京地検に告訴しました。
 田母神氏が出馬した都知事選と、次に続く国政選挙の件については、ネットではさまざまに報じられおり、その後裁判の判決が下りていませんので、前後の経緯をご覧いただければ有り難いですが、 この告訴自体も、基本的には「正義感」にかられた水島氏側から田母神氏を「一方的に切った」と指摘されてもおかしくはないものでした。
 とくに都知事選は、水島氏が「選対本部長」という選挙事務所の最大の責任者の肩書で臨み、その結果敗北して使途不明金が生まれたのですから、そう指摘されても仕方ないでしょう。手弁当で多くの人が応援し担いだ候補を、東京地検に告発したわけですが、少なくとも現段階では、田母神氏本人の「横領罪」はいまだ成立していません。
 しかも今回の裁判が終わったとしても、番組で「大嘘つき」と罵られ、背中から斬りつけるような言動をされた田母神氏側には水島氏側に対して遺恨を残すのは確実で、もはやこの問題は、「分裂」と片づけられるような出来事ではなくなってしまいました。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 すぐ分裂するのが保守の弱点

左翼とリベラルに独占された学界へ斬りこみが甘い
 左翼やリベラル側から見れば、「やはり保守や右翼はネトウヨだからダメだ」というレッテルが貼られ、実際に大勢の人が保守陣営から離れて行きました。
 彼らが見誤ったと思われるのは、選挙に参入し、実に幅広い層の人々が集ってきたときの対応でした。中にはリベラルから入って来た人も大勢いました。
 そして保守は一大勢力になれず、この水島氏の田母神氏への告訴によって、「五年以上立ち直れなくなった」と指摘されるような打撃を受け、千載一遇のチャンスを失いました。
 そのような日本の保守の状況を目の当たりにして、保守陣営が「日本を守るために、どんな状況にも耐え抜き、戦略と戦術を持って打開して行ける勢力になるには、まだ内部には何かが足りない」と考えるようになりました。
 私は政治の世界を三五年近く見続けているのですが、保守派は、左翼やリベラルに比べると、「独りよがり」で、「自己満足」な部分が多すぎ、大勢の「普通の日本人」の意見をまとめ切れるような客観的で広がりのある見方がなかなかできません。
 また、思想的にも戦後アメリカから占領政策を受け続けたため、保守が日本を支配しているリベラル層の思想や哲学を乗り越えることは難しくなっている印象を抱いています。
 ほかにも問題点として例を挙げれば、現状の保守は政治や経済だけでなく、社会保障や労働政策、あるいは司法政策といった、これまで左翼やリベラルだけでほぼ完全に独占されていた分野への食いこみ方も少なすぎます。
 私は田母神氏が約六〇万票を獲得した都知事選の開票日の当日、水島氏に対して「これで次か次の段階でメジャーになれますね」と声をかけました。ところが水島氏は、何と「メジャーとは何だ! メジャーになど、ならなくてもいい」と言い切っていました。
 話の前置きが長くなりましたが、私はこの著書で、保守の弱点と限界を嫌というほど知っているがゆえに、単純に「保守が良い」と言いたいわけでは決してないのです。
 むしろ日本人は、これまでの保守の思想だけではない、将来の世代が、本当に期待と希望を持てるのに耐えうる「新たな日本人思想」を探すべきだと考えているほどです。
 現在では、日本の保守は、自意識や自己満足の度合いが過剰で、自分の足元すら守れなくなっている存在にすぎないような気がします。その状況と認識を変えるには、まず保守を最初から絶賛するという行為を止めなければならないと思うのです。
 しかし、それにも増して問題は戦後日本を牛耳ってきた左翼やリベラル側にあります。保守を批判するよりも、まずは日本人が、自分自身の「思想」は、自分の頭で考えることが何より重要だと思います。
「保守は怖そうだから、何となくリベラルが良い」などと言うのでは、他人が考えた思想に自分の思想が乗っ取られてしまう、ということも十分ありうるわけですから。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 左翼とリベラルに独占された学界へ斬りこみが甘い


第六章 グローバリズムから脱却する日本独自の経済思想
リベラルとネオリベラル

 世界中の「リベラル人」が好み、自らが目標とする言葉に「多文化主義」、あるいは「多文化共生主義」があります。これにはまず前提があり、国家や社会は移民や難民などの多民族の「人権平等要求」に常に応えなければならず、相手の文化を自分の国や社会の文化と「均等化」することが「社会的正義」とされていなければなりません。
 わかりやすく言えば、相手の国の文化的、ときには政治的要求には、常に寛容に耳を傾けなければならず、「偏見」や「先入観」でモノを言うのは「ヘイトスピーチ」であり、反論すら許されないということになります。 リベラルとは、常に国家的・社会的「マイノリティ」に対して温かく見守らなければならないのです。
 たとえば、これはすでに行われていますが、韓国人や日本に帰化した韓国系の日本人が、「日本の文化は間違っている」と憤って、日本の仏閣に安置されている仏像や楼門、全国各地の神社の破壊や棄損行為を行っても、日本人は甘んじてそれを受け入れなければならないとリベラルは要求するのです。 また、韓国人が日本国内に「韓国街」を作ることに対しても日本人は寛容でなければならないということになります。
 第一章で述べたように、アメリカやイギリスなど欧米諸国では、「エスニック・シティ(エスニシティ)」と呼ばれる市や町レベルでの「文化共同体」がたくさん出てきています。
 しかし、世界的にそのような動きは、必ず反発が起こります。 「社会的正義」の名の下に、「異文化」だけを優先させれば、必ずその土地に昔から根づいていた「伝統文化」を大切にしたいと考えている保守的な住民からの異論が出るからです。
 それでもなお、リベラルは、移民文化を寛容に受け入れようとします。それは多文化共生主義 (マルチ・カルチャリズム)に基づくものですが、住民との間で摩擦が起こり、にっちもさっちも行かなくなっても、それを見て見ぬふりをします。 あるいは、伝統文化を守ろうとする保守の人たちを「極右」とか「排他主義」などと言って、非難し始めるのです。
 とりわけ保守を嫌う後者の方は、「ネオ・リベラル」と呼ばれる人々と同質性が高く、最近の欧州などでは保守を「右派ポピュリズム」という表現を使います。
 その理由は、リベラルの最終的に目指す目標は、「コスモポリタン主義 (コスモポリタニズム)」であり、「地球は一つ」であることが「正しい思想」であるからです。
「コスモポリタニズム」が高じてくると、人々は「新しい文化が入ったのだから、新しいルールを作るべきだ」、次の段階では「世界を一つに統一して”地球市民”を作るべきだ」などと考えるようになります。ちなみに、これは「文化とは人間が統治できるものだ」という全体主義の考え方に近いものです。 わかりやすく言うと、「世界は一つ」といい統一ルールのもとに、世界全体を支配しようとする新自由主義的な思想に近いのです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 第六章 グローバリズムから脱却する日本独自の経済思想 リベラルとネオリベラル

 しかし、これは明らかに論理矛盾です。リベラル派が標榜している「多文化主義」や「多民族主義」という思想が、いつの間にか統一された「世界市民」になっているわけですから、リベラル派自身がどこかおかしいと感じなければならないはずです。

矛盾する多文化主義とコスモポリタニズム
 リベラル派は、その自らの矛盾をまず解決してから、行き過ぎた「多文化主義」を批判する保守に文句を言わなければならないはずですが、これまで何度も述べている通り、リベラルは自分のことを棚に上げて、相手を「反知性主義」や「排外主義」などといって批し始めるために、議論することさえ封殺します。
 一方、実は「保守」にもさまざまな考え方があって、日本に溶け込もうとするニューカマー (新参者と訳す)をできるだけ温かく受け入れようとする「保守」と、極力排除して行こうという「保守」に分かれます。したがって、「保守=排外主義」はレッテルにすぎません。
 ここに、「保守」と「リベラル」が対立する要素と原因、「保守」が内部で分断される火種の一つが生まれるのです。
 しかし、大元をたどって行けば、リベラル側の「自由」を通り越した 「過度な異文化への寛容性」に問題があるのですから、そこに原因を求めようとすれば、このようなややこしい問題の分析は、意外と簡単なのではないでしょうか。
 彼らの大きな論理矛盾の一つは、「あらゆる民族や文化の同化を認めない」と言いながら、実は「同化」を認めているところです。
 たとえば、リベラル主義者は「多文化主義はエスニシティの面で多元的でコスモポリタンな社会をもたらした」と主張しますが、その一方で「統一された多元的なコスモポリタン」というのが言語として、明らかにおかしなものであることには気づいていません。
 もし「多文化主義」が「多元的」であるとすれば、「コスモポリタン」とか「エスニシティ」という一つの概念で括れるはずはないからです。
 そして実際問題として、異文化を持ちこもうとする人たちこそ、受け入れ国に対し「同化」を求めます。
 チャイナタウンやコリアタウンがその典型です。
 それは自然なことで、自分たちの周りに、言葉が通じ信用できる家族や友人がいれば便利で、気やすいからですが、これは間違いなく「同化」です。
 リベラルとは、「非寛容に対する寛容」も認めるものだとすれば、この「同化」された「エスニック共同体」をどうかしなければなりません。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 矛盾する多文化主義とコスモポリタニズム

 これは駄洒落ではなく、彼らは「多文化共生」を言い出した張本人たちなのですから、そのような言説を取った責任を取るべきなのですが、彼らは決して責任を取らないのです。
 移民や難民の立場に立てば容易にわかりますが、リベラリストには「これからの世界は多文化共生主義となり、すべての市民はコスモポリタンになっていく」という「コスモポリタリズム」の思想があります。 これはリベラル派の「理想」と「理念」と極めて似通っており、世界の国家はいずれなくなり、国民は「地球市民」となる、という考え方です。
 その「理想」を信じて、移民や難民政策を推進するわけですが、世界各地でテロが起こり、民族紛争が起こると、それを「間違っていた」と言わず、「保守」や「愛国者」の「ナショナリズム」のせいにしているというところに「欺瞞」や「虚飾」があるのです。
 すべての物事には、忍耐の受容にも限度というものがあります。
 いくらリベラルでも、テロリストや凶悪犯罪の犯人が自分の家の中にどんどん入って来るのでは、嫌でしょう。しかし「非寛容にも寛容」な彼らはそれを絶対に認めません。
 それどころか、「自分の共同体や家族を守りたい」という人をすべてごっちゃにして「排他主義者」として批判するだけでは何の解決にもなりません。
 結局、「リベラルとは何か」と問われれば、私は「闇鍋主義」と答えます。
 いまの若い人にはわからないかもしれませんが、昔の旧制高校や旧帝国大学などでは、この「闇鍋」が流行っていました。
 その中身には、肉や野菜などの食べ物に混じって、鉄などの金属や靴など食べられないものが入れられていました。私も若気の至りで友人と「闇鍋パーティー」を行い、一度だけ食べてみた経験がありますが、 長靴を食べて吐き気を催したあとは、食欲を失ってとても食べられたものではありませんでした。やはり鍋は、おいしい食材があるから鍋だとつくづく思いました(真似しないでくださいね)。
 この闇鍋と同じように、「リベラル」とは、「何でもありの鍋状態」です。
「民主主義」、「平和主義」から「平等主義」「自由主義」「友愛 (博愛主義」「寛容主義」「正義主義」、そして「左翼主義」から「暴力革命主義」まで、何でも入っています。
 そんなもの、食べられるわけはないでしょう。(笑)
 その事実は、戦後史のうちとりわけGHQが日本の占領期に、日本人に対して「リベラルは正しい」という価値観を中心に、共産主義を含むさまざまな思想を混ぜて教え、日本人が自分たちの思想を取り入れてしまったことによく表れています。
 つまり、戦後日本人は、このような欧米思想の「闇鍋」を食べさせられていたのです。
 いまでも七〇歳近いくらいのいい年をした年齢の方が、無邪気にも「私はリベラルです」などと言っているのを聞くことがあります。 しかし、それは自らをしていまだに闇鍋をつついているような「大人の分別のつかない人間だ」と言っているのと同義語です。 もはや止めた方がいいでしょう。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 矛盾する多文化主義とコスモポリタニズム

 いずれにせよ、現在アメリカや欧州、日本だけでなく、思想の世界は大混乱が起きてい
るという状況になっているのです。

日本と世界で混乱を引き起こした新自由主義
 リベラルをめぐって、なぜ思想の世界でこのような混乱が起こるのでしょうか?
 日本における長引くデフレ不況を引き起こした「ネオ・リベラル経済思想」(新自由主義)という側面から補助線を引き、それをもとに考え直してみましょう。 (P107の図参照)
 その前提として、「失われた二〇年」という、九〇年代中盤から二〇一〇年代前半までの経済のデフレ不況の原因は何だったのかという問いを突き詰めなければなりません。
 二〇一〇年代の日本の政治の世界では、郵政民営化など構造改革を唱える小泉純一郎元首相という「新自由主義者」が出てきましたが、これは、当時のFRB(連邦準備制度理事会)のバーナンキ総裁が絶賛していた「シカゴ学派」でノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマン・ハーバード大学元教授の影響を受けていました。
 このフリードマン氏こそ、経済学における「新自由主義者」(ネオ・リベラリスト)と呼ばれる張本人であり、「マネタリスト(貨幣経済重視主義者)」かつ、経済的自由を阻害するあらゆる規制や制限を取り払うべきという「規制緩和論者」でした。
 しかし、日本人の経済思想は、戦後ずっと主流だった「ケインズ主義」にするのか、フリードマン氏の新自由主義にするのか明確にされていませんでした。
 この状況下で、「失われた二〇年」をもたらした九〇年代中盤以降の日本経済は、財政や金融を緩和するのか規制するのかしないのかハッキリせず、アクセルとブレーキを同時に踏むという「ストップ・アンド・ゴー政策」、あるいは金融政策も為替政策も小出しにするという「戦力の逐次投入」というべき経済政策を行い続けました。
 とりわけ九七年から九八年にかけての橋本龍太郎内閣では、金融財政の大幅な緩和を行いながら、消費税三%から五%に引き上げるというその後の「失われた二〇年」のきっかけとなる政策を行い、経済的不況を悪化させました。
 あまりよく知られていないのですが、消費税増税を決めたのは橋本内閣の前の社会党の村山富市内閣でした。アジア通貨危機が起きる直前ですが、実はそのとき私は、自民党と社会党、新党さきがけという三党連立政権(自社さ政権)で行われた消費税増税が決まった与党税調の議論の経緯を内側から直接見ていました。
 自社さ政権の考え方の基本として、「消費税は将来の社会保障に使われるべき」というのが大義名分でした。
 当時の自民党は橋本龍太郎総裁に野中広務幹事長という「リベラリストかつドメスティック」な幹部たちが中枢を占める体制だったからです。 社会党は村山富市氏が総理大臣、新党さきがけは鳩山由紀夫氏や菅直人氏といった、名実ともにリベラルな政治家たちが集まっていました。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 日本と世界で混乱を引き起こした新自由主義

 あとでまた述べますが、この「リベラリスト」たちは、国家・国民を大事にする「経済ナショナリズム」を排斥する方向に向かうという点において、新自由主義、ネオ・リベラリストととても相性がよいのです。 当時世界は国家経済を否定し、グローバル経済に流れていく時代でした。
 また、当時のアメリカの民主党のビル・クリントン政権は、政治的にも経済的にも「日本離れ、中国贔屓」の姿勢を見せ、ヨーロッパも共産主義国家が終わって、「今後はリベラルが世界中の社会の共通思想になる」といわんばかりの雰囲気でした。
 このリベラル主義がかえって経済の混乱を長引かせたのです。
 かくいう私自身も、新党さきがけの小沢鋭仁衆院議員(のちに民主党代議士から日本維新の会衆議院議員)らと一緒に、ポスト冷戦経済思想の「社会的公正さ」を増強させるための「ニュー・リベラリズム (ニュー・リベラル)」の研究をしていたほどです。
「ニュー・リベラリズム」とは、「ネオ・リベラリズム (新自由主義)」に比べ、「社会的公正さ」を増すために、所得の再分配率を高める、つまり欧州の社会民主主義的な手厚い医療や福祉などの社会保障費などの増大化を目指すところに特徴がありました。
 一方で、社会保障費を高めるためには、消費税を含めて増税に積極的に賛成する点に大きな問題がありました。言いかえれば、「ニュー・リベラル」とは、欧州型のリベラリズム・社会民主主義とアメリカ型の新自由主義の「中庸型思想」でした。
 経済とは、少なくとも日本においては「経世済民」という多くの人々を救うものでなければならず、所得の再分配も含めて公正でなければならないはずだと考えていたのです。
 ところが、その頃から世界経済では、資本が国家から流出するという「キャピタル・フライト」を起こし、「富の集中化」、すなわち「貧富の格差問題」という劇的な現象が起きていました。九八年に日本で行われた「金融ビッグバン」は、富の集中化と所得の格差に拍車をかけ、年功序列型で働いていた一般の日本人の賃金は、どんどん下がるという現象が起きてしまいました。すると、企業側は正社員切りを行い、派遣労働者で人件費を安くし、さらに悪化すると派遣切りを行う。 という企業防衛策に踏み込んだのです。
 そこで日本経済を上向かせるための新たな経済思想が必要となり、それが竹中平蔵氏らの「新自由主義」だったわけですが、旧いリベラル主義者たちは、そのことに気づかないばかりか、ケインズ主義を続けようとする自民党までも「経済失政だ」と非難し続けているのです。

「ネオリベ」は終わらない
「ネオ・リベラリズム」は日本語で政治で使われる意味と、経済や生活文化面で使われる意味がかなり違います。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 「ネオリベ」は終わらない

 たとえば、小泉内閣当時の構造改革路線や、その頃さかんに提唱されていた日本への移民を一〇〇〇万人以上受け入れする案などは、「ネオリベ」的な政策として、いまだに生きています。私から言わせてもらうと、「新自由主義」とは、「カネに対する欲望に忠実な思想」です。 もっと言えば、グローバル市場化により「稼げる人間だけが稼ぐ」という思想で必然的に企業収益を第一の目的として、リストラや賃下げに歯止めがかからなくなり、それを妨げない労働組合は、「無用の産物」となります。
 これにより日本では、「グローバル化」と「市場原理主義」によって高度成長の「三種の神器」といわれた「終身雇用」「年功序列型賃金」 「企業内労働組合」の三つの制度が崩れたわけですが、「市場経済活動の最大化」という動機から出てきた思想でしょう。
 このように、小泉政権の頃に経済や経営を合理化・効率化する思想を貪欲に受け入れようという風潮が起き、それが日本でもヒト・モノ・カネの移動を自由にする「グローバリズム」になっていきます。
 一方、「ネオ・コンサバティズム(ネオコン=新保守主義)」は、日本的に言うと、思想的には個人の自立と自由を大切にする「自由主義(リバタリアン)」的傾向が高いのですが、特色は新自由主義との似て非なる点として、現状を「保守」するために、戦争を含む革新的、あるいは過激な手法も辞さないところでしょう。日本でも、二〇一〇年代からこのようなネオ・コンサバティズムのような過激な保守派が出てきたのは間違いありません。
 新自由主義は、世界的な「資本の集中」 や、 「規制緩和」による経済活性化政策という意味などに使われたりするほか、前出のフリードマン氏や投資家のジョージ・ソロス氏のように、「社会的公正さ」を強く求める傾向があります。実際にフリードマン氏は、「肌の色による人口の階層化は、アメリカにおける収益の不均等化格差を生みだす、もっとも強い要因の一つになっている」と、人種差別には反対の姿勢を明らかにしています。
 日本ではフリードマン氏の影響を受けた日銀出身の竹中平蔵氏や中原伸之日銀元政策委員会審議委員らが先導し、「規制緩和」や「日銀改革」を行いました。
 実際に日本政府は郵政民営化や道路公団の民営化を含めた規制緩和を進め、量的緩和やゼロ金利政策も進めましたが、国民の物価や賃金はほとんど上がりませんでした。事実、二〇〇〇年代中盤には、経済社会的には「貧富の格差」が進み、国家が必ずしも国民を幸せにできないという現象を生んだわけです。
 そうかといって、ネオリベは無くなったわけではありません。
 たとえば、橋下徹氏や小池百合子氏などは、「新自由主義型」の規制緩和や、常に議会と役所の構造改革などを進めていますし、何より現在においても安倍総理自身が、トランプ大統領の誕生によって頓挫したものの、TPPの積極的参加や内閣府の試算で毎年二〇万人規模の移民計画の推進なども進めているほどです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 「ネオリベ」は終わらない

 日本では、小泉内閣の当時の新自由主義的な経済政策の「失政」を問う声が多いにもかかわらず、何の処分も社会的制裁も行われていないのは、いまだに官庁や経済人たちに「ネオリベ的思想」が残っている証拠でしょう。
 もともとリベラル派が求めた消費税も、日本の社会保障にはほとんど使われていません。
このような現象は、リベラル派の衰退を十分に物語るものです。実際にそれに対する異論の声は、保守側からだけでなくリベラル派内部も上がりましたが、最終的には「ネオリベVS.保守」の戦いという構図になりました。
 保守には、グローバリズムに反対する意見が必ずあるからです。
 それに対し、日本のリベラルな風潮の中では、たとえば多くの移民を受け入れ、その社会保障費として消費税を上げることに賛成する経営者や官僚が少なくありませんでした。
 だからこそ日本の財務省は、現在でも「消費税を次は一〇%、最終的には二八%にするべき」という増税拡大路線を採り、「リベラリズム」が政治を左右してきたわけです。
 また、国家内部での高い社会保障や 「社会的公正さ」のニーズや必要性を求める声が高まってくるのが、「リベラル」の強い時代の特徴です。そこで、国家や社会の「構造改革」を謳い、過激な保守派に対しては、「ネトウヨ」とか「極右」などという言葉で激しく批判して排除しようとする「ネオリベ派」が出てくるのです。 リベラルとは、「寛容性」であるはずなのに、「保守」に対しては、歴史的にまったく寛容性がありません。
 実際に、不況後の日本には、過激な保守を排除しようとする声が生まれ、リベラル派とネオリベ派が手を結んで、 保守を追い出すかのような構図が明らかに存在しました。 たとえば、国内への移民政策などグローバリズムに関しては双方ともに利害が一致していました。なぜなら、新自由主義者側は安い労働力が欲しいのに対し、リベラル側は「人種的平等」や「寛容性」などを欲しがったからです。
 結局、この二〇年の日本の経済的な思想を私から見れば、「リベラル」 (世界市民的理想国内での社会的平等と公正を重視)、「新自由主義」 (自由な世界市場の拡大による政治・経済的欲望への追求)の二者を、経済ナショナリズムを含む 「保守」(国家の自立と規律による経済的な漸進主義)が追うかたちで争っている状況でした。
 いまや経済的な社会主義を行うというマルクス経済の「オールド・リベラル」が終わり、ネオリベ派の意図する「市場からの国家の撤退」という思想だけが残っていきました。
 それと前後して、アメリカでは二〇〇八年の「リーマン・ショック」のあとに誕生したオバマ政権が「市場原理主義」を基本思想とする「財務省・ウォール街に支配された」という批判が強まり、「民主社会主義」をうたう民主党のバーニー・サンダース氏が現れ、結局、ヒラリー・クリントン氏に統合されました。つまり、政治・社会的な「リベラル派」は、経済的な「ネオリベ派」に支配されやすい関係にあるわけです。
 近年でこそ日米ともに「ネオリベ派」は息をひそめていましたが、ヒラリー・クリントン氏らが大統領に就任しリベラルが権力を握ると、再び「ネオリベ派」である「ウォール街が出てくる」と指摘されていました。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 「ネオリベ」は終わらない

 米大統領選の少し前、「リベラル派」(厳密には「ネオリベ派」と思われる)を自認する作家の橘玲氏は、二〇一三 (平成二十五)年に行われた総選挙を受けて、「野党で共産党以外に票を獲得できたのは、ネオリベ”の政党のみ。民主党も小沢一郎が出て行ってネオリベが主流派となった。(中略) 安倍政権もネオリベといわれているのだから、今回の選挙で日本の政治はネオリベ一色となった」、「いま起きていることは、オールドリベラルが生み出した福祉社会が機能不全となった時代の必然です。日本の政治は今後、「保守的なネオリベ」と「現実的なネオリベ』に二極化していくことになるでしょう」(「週刊プレイボーイ」二〇一三年七月二十九日号)と断言していたほどです。
 橘氏は、自分が「ネオリベ派」だから「ネオリベ派は生き残る」どころか、「日本の思想はネオリベだらけになる」と言いたいのかもしれませんが、はたしてそれは真実だったのでしょうか。アメリカ国家がトランプ氏を選んだということは、国内に貧富の格差を生む「グローバル化の否定」という側面があったとしか思えません。

アベノミクスも経済左派政策
 橘氏の言う「ネオリベ」は、実は日本では小泉内閣が終わり、五年ほど経った二〇一〇(平成二十二)年頃から、「青息吐息」の状態でした。
 平成二十四年の第二次安倍内閣におけるアベノミクスの「三本の矢」の財政政策を始めとする当初の経済政策は、明らかに 「経済左派」的な政策を敷いていました。
 一つは、リベラル政権であった民主党政権が敷いたデフレ経済から脱却するために、自国通貨の価値を下げること、つまり「円安」に向かうように金融緩和を行いました。
 二つめは、財政で公共事業を増やし、ケインズ主義的な経済効果を狙いました。
 三つめは、医療費や社会保障費などの削減には積極的には取り組まない方針でした。
 労働政策のいくつかも、「タカ派」と呼ばれる安倍政権が意外なほど「経済左派」であることを物語っています。たとえば、大企業の会社員の賃上げは、間違いなく「経済左派」
 の仕事ですが、これも安倍政権が直接経済界に申し入れて行っています。さらに「新三本の矢」 で出してきた「働き方改革」のうち、「同一労働同一賃金」などは、北欧で行っているようなリベラルな労働政策です。
 そして貿易自由化を進めるTPPは、確かに「経済右派」的な政策ですが、これはもともと民主党政権が進めていた政策であり、それを経済産業省が後押ししたものです。一般に自民党より現在の民進党の方がまだ「経済右派」的な政策を行う場合が多いのです。
 あたかもリベラルのお株を奪ったかのような政策を次々に打ち出す安倍政権は、実は第一次安倍政権が崩壊した二〇〇七 (平成十九)年以降、「保守的な政策」だけでは政権はもたないという反省を側近や内部で行ってました。その中身には「戦後レジームの脱却」という言葉を使わないなど、いくつかの方向性がありますが、経済的には、「日本の歴史と経済政策は左派のものが有効に機能する」という経験則ができたと思われます。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 アベノミクスも経済左派政策

 戦後日本では、GHQの占領政策以来、一貫して日本人の政治思想は強引に「左翼」と「リベラル」、そして「右翼」に切り分けられましたが、経済・福祉的な分野で見ると、もともとは右も左もリベラルも基本的には「大きな政府」を目指すという「経済左派」的な政治風土であったことが大きな要素となったのです。
 実際、日本の戦後経済政策は、とにかく占領政策の「抜け道探し」に追われていたため、小手先の延命措置を行い、マルクス主義のような景気や物価の向上に対して決定的な責任を取らなくても済む「バラマキ型」のリベラル的な政策も横行しました。
 ところが、先に述べた「ネオリベ的」な政策を敷いた小泉政権での「新自由主義」は、「経済右派」と呼ばれ、あの朝日新聞経済部の経済思想までもが、「経済右派」と呼ばれるほ賛同していた――という実態がありました。
 これは「ネオ・リベラリズム」による経済政策が当時からいまに祟るまでアメリカでは歓迎されていたからですが、リベラルとネオ・リベラルの融合といえるでしょう。
 一方、昨年秋からは、日銀の金融緩和政策は、「三本の矢」の三本めに当たる「金融政策」では、量的緩和を行っても、なかなかインフレ目標の「二%」に到達しませんでした。
 黒田東彦日銀総裁は、マイナス金利の導入と金融緩和の継続に踏み切りましたが、リベラル派やネオ・リベラル派からは、「リフレ政策は失敗した」 「金融緩和はうまくいかなかったのではないか」という「リフレ失敗説」が飛び交っています。
 しかし、国内の貨幣供給量を増やし、消費を喚起するなどという考え方の点で、「経済保守派」的であるリフレ政策には、まだ「失敗」と断定する決着がついていません。その前に、日銀のリフレ政策を批判するリベラル側には、消費税の増税など自らの政策の失敗を反省する必要があるのですが、それも十分には行われているとは言えません。
 いずれにせよ、消費税の増税延期もそうですが、日本の「経済保守派」の考える経済政策は、「経済左派」的なリベラル政策と近く、国家・社会的に国民の貧富の格差を平等にするという役割もありました。
 その意味で、経済における日本のリベラル派は、保守派の経済思想と同じように新自由主義の思想とは歴史的に相性が悪く、ネオリベ派の「経済右派」とは真反対の思想でした。

戦後「経済保守派」が浮上しなかった理由
 ところで、その間、経済思想的な保守派は、なぜ浮上しなかったのでしょうか。
 とくに第二次安倍政権が誕生した二〇一二(平成二十四)年には、最大のチャンスを迎えていました。まず民主党政権で政治社会的に「リベラル派」が壊滅的打撃を受けてしまい、リベラル勢力は、ネオ・リベラリズムに利用されるだけの役割となってしまいました。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 グローバリズムから脱却する日本独自の経済思想 戦後「経済保守派」が浮上しなかった理由

 日本では二〇年間不況だったにもかかわらず、消費税の増税を行い、公共投資は極めて限られたものとする構造改革路線が幅を効かせました。
 アメリカでもオバマ政権下で、グローバル化が進み、「一%の富裕層と九九%の貧困層」という貧富の格差の二極化が最大化しました。
 本来なら新自由主義の歯止めをかけなければならないはずのリベラルは、経済的にはきわめて無力でした。このリベラル派凋落の原因については前に述べたように、「ネオリベ派」との親和性が高かったからですが、二度と浮上できないほど落ち込んでしまいました。
 一方、新自由主義の対抗馬となるはずの「経済保守派」も封印されていました。
「経済ナショナリズムは保護主義となり、第二次世界大戦のような戦争を起こす」、「ネトウヨの主張は聞く必要がない」といわんばかりの風潮は、実はこの二〇年間の経済のネオ・リベラリズムとオールド・リベラリズムの融合という現象が大きく左右していたのです。
 先に述べた金融の「リフレ政策」などもデフレが始まった橋本内閣の九六(平成八)年頃から存在しました。たとえば、日本国内に「積極経済」を打ち出そうとした故・梶山静六氏は、日銀の貨幣供給量を大幅に増やし、国内需要を喚起するという大胆なリフレ経済政策を打ち出していました。 最近話題になっている国内市場への「ヘリコプター・マネー論」など、「経済ナショナリズム」的な政策を提唱していましたが、残念ながら、構造改革を先に行うべきとする「ネオリベ派」と社会保障に使うべきという「リベラル派」の挟み撃ちにあい、梶山氏の経済政策は日の目を見ることはありませんでした。
 経済産業省出身の中野剛志氏によれば、ナショナルアイデンティティを重要視する「経済ナショナリズム」は、「ずっと異端であり続けた」といいますが、その理由には、「国民」(ネーション)と「国家」 (ステート)の区別がついていないことなどを挙げています(『国力とは何か 経済ナショナリズムの理論と政策』)。
 しかし、この「国民国家」の思想を常に無くす方向性を向いてきたのが、世界のリベラル派だとすれば、その責任は大きいと言わざるをえません。
 なぜなら、九〇年代中盤から日本がデフレ経済を続けてきた要因は、グローバル化を目指すネオリベ派が「国民国家」という概念を無くしてきたこともありますが、「経済ナショナリズム」の思想が常に「異端の経済思想」というレッテルを貼ってきたリベラル派にも責任があるからです。そのため、日本国内では長らく国民の利益と企業や株主の利益の乖離を生み、最終的にはリストラや派遣労働者の増加という人件費の抑制策を生まざるをえませんでした。 デフレ経済は物価が安くなる分、リベラル派にも利益があり、しかしその一方で失業が増え、自殺者は一三年連続で年間三万人を超えるペースとなりました。
 だから、私自身はこの国力を重視する「経済ナショナリズム」を排斥したリベラル思想こそが日本の「失われた二〇年」を作った遠因となったと考えています。二〇年間続いたデフレ経済の結果、「経済ナショナリズム」の思想が常に「異端の経済思想」とされてきたわけです。この国力を重視する「経済ナショナリズム」への排他思想が日本の「失われた二〇年」を作った原因の一つとなったと指摘できるからです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 グローバリズムから脱却する日本独自の経済思想 戦後「経済保守派」が浮上しなかった理由

 仮にもし 「経済保守派の思想だけでは、経済政策は成り立たない」という状況であるならば、いまの安倍政権が行っているように、「新自由主義」や「経済ナショナリズム」のそれぞれを「良いところ取り」するような「ベスト・ミックス」の方法を採っても良かったはずです。結局、経済とはその時代によって異なるのは当たり前だからです。
 それだけ、戦後の日本人は、これまで自らを幸せにするために自身で考えるべき経済思想の空間が狭く、欧米の経済思想に頼り切りになっていました。
 その結果、三〇代、四〇代の若い層は、リベラル派の多い団塊の世代など高齢層を尊敬しなくなりました。 九〇年代に「経済ナショナリズム」の思想に対して、「異端の経済思想」などと排斥せずに、きちんと向き合って早めに取り組んでいれば、おそらく日本の「失われた二〇年」はありえなかったといえるでしょう。
 結局、自らの経済思想を持てない国民は、自らの基盤である経済を危うくします。
 日本人は、アメリカや欧米から輸入ばかりしている経済思想の依存体質を止め、普遍的かつ独自の経済思想を創り上げなければならないはずなのです。
『日本をダメにするリベラルの正体 山村 明義』 グローバリズムから脱却する日本独自の経済思想 戦後「経済保守派」が浮上しなかった理由



『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密 江崎道朗』(共産党に関与する人は、①公然の党員②非公然の党員③同伴者(Fellow Travelers)④機会主義者(Opportunists) ⑤間抜け(Dupes) のように五種類に分ける分類法、不法移民の楽園、サンクチュアリ・シティの恐怖) 
『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密 江崎道朗』
『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密 江崎道朗』

敵視される中産階級
 そしてオバマ大統領の主要政策の三番目は、「罪深いホワイト」の中心である中産階級に対する敵視政策です。
 オバマ政権は、中産階級に対して重税を課し、中産階級の解体政策を行っています。
 フィナンシャル・タイムズの調査記事(二〇一五年十二月九日、America's Middle Class Meltdown:Core shrinks to half of US homes(アメリカの中産階級崩壊 中心層が世帯数の半分に))によると、オバマ大統領就任前年の二〇〇八年から二〇一五年までの間に、平均所得を上回る成人人口が七八〇万人増え、貧困層の人口も六八〇万人増加した一方、中間層の増加は三〇〇万人にとどまっています。
 そして、今はまだ中間層にいる人々の多くが、いつ貧困層に転落するか分からないという不安を抱えています。
 トランプ候補が「もうポリティカル・コレクトネスなどと言っている場合ではない」「アメリカを再び偉大にしなければならない」と訴えているのは、「ホワイト・ギルト、つまり自虐的なアメリカでいいのか?」ということを言っているのです。
これらの政策をオバマは分からずにやっているのでしょうか?違います。オバマは確信的にやっています。
 二〇一二年、アメリカで『The Roots of Obama's Rage(オバマの憤怒の根っこ)』(未邦訳)という本が出版されてベストセラーとなりました。
 著者のディネシュ・デスーザはニューヨークにあるキングス・カレッジというキリスト教の大学の学長で、保守派の政治評論家でもあります。アメリカでは誰もが知っているほど、有名な若手政治評論家ですが、「保守派」であるためか、日本では全く紹介されていません。
『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密 江崎道朗』 敵視される中産階級

 デスーザはこの本を元にして、同年『2016――オバマのアメリカ』という衝撃的な映画を製作し、これも大ヒットになりました。
 デスーザの本は、オバマ自身の自伝を手がかりにして、オバマの隠された過去と思想的背景、そして大統領となったオバマがアメリカに対して何をしようとしているのかを徹底的に暴いています。それによると、まず、オバマの母親のスタンリー・アンは、アメリカ共産党の熱心なシンパでした。
 共産党に関与する人は、

一、公然の党員
二、非公然の党員
三、同伴者(Fellow Travelers)
四、機会主義者(Opportunists)
五、間抜け(Dupes)

のように五種類に分ける分類法があり、スタンリー・アンはこの中の「同伴者」、つまり、共産党には所属していないけれども、共産党のために自発的に活動する協力者でした。
 ついでに説明しておくと、「公然の党員」というのは、日本でいえば志位和夫氏のように、共産党に所属していることを世間に公表して共産党員としておおっぴらに活動している人です。
 「非公然の党員」というのは共産党に所属していることや共産主義を信奉していることを一切秘密にして、公然の党員とも接触せず、党のために極秘のさまざまな工作を行う人たちです。
 「機会主義者」とは、選挙での票や賄賂といった個人的な利益のために一時的に共産党に協力する人たち、そして、五番目の「間抜け」は、共産党やその関連組織が訴える普遍的な「正義」、例えば「平和を守りましょう」とか「弱者の人権を守りましょう」のようなスローガンに情緒的に共感して、知らず知らずのうちに共産党に利用されている人を指します。
 アメリカ共産党などといわれても、「そんなものがあるの?」と驚く人が多いでしょう。確かに戦後、アメリカ共産党は非合法化され、表向きはその活動は見えなくなってきていますが、アメリカ共産党員たちは民主党や労働組合に入りこみ、未だに活動を続けているのです。
 資本主義のシンボルのようなアメリカでは、共産党など誰も知らないマイナーな存在に違いないと思われている方も多いかもしれません。
『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密 江崎道朗』 共産党に関与する人は、 一、公然の党員 二、非公然の党員 三、同伴者(Fellow Travelers) 四、機会主義者(Opportunists) 五、間抜け(Dupes) のように五種類


『そして、日本の富は略奪される―アメリカが仕掛けた新自由主義の正体 菊池英博』(1%が99%の富を略奪する、「構造改革」は「トロイの木馬」だった、冷戦後のCIAは日本を第一の目標としている、首相官邸内に国会の承認のない会議を設置、日本のシカゴ・ボーイズが官僚・学者・大マスコミに潜伏、「年次改革要望書」で実現した「カイカク」の内容、「国家戦略特区」はアメリカの租界である)
『そして、日本の富は略奪される アメリカが仕掛けた新自由主義の正体 菊池英博』
『そして、日本の富は略奪される アメリカが仕掛けた新自由主義の正体 菊池英博』

内容説明
悪魔の思想に洗脳された政府・財界・マスコミ・経済学者に騙されるな!超金融緩和、消費増税、TPPで日本から巨額マネーが流失し、格差はますます拡大!

著者等紹介
菊池英博[キクチヒデヒロ]
『そして、日本の富は略奪される―アメリカが仕掛けた新自由主義の正体 菊池英博』 消費税増税は戦後最も残酷な法律だ!菊池英博 国会参考人
1936年生まれ。東京都出身。東京大学教養学部(国際関係論・国際金融論専攻)卒業後、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)へ入行し、本部と内外営業拠点で国際投融資の企画と推進、銀行経営に従事。ニューヨーク支店外国為替課、ミラノ支店長、豪州東京銀行取締役頭取などを歴任。1995年、文京女子大学(現文京学院大学)経営学部教授に就任、2000年に同大学院教授(国際金融・日本経済)を兼務。2007年からは日本金融財政研究所所長・経済アナリストとして活動している。この間、金融庁参与(日本振興銀行に対する行政対応等検証委員会委員)を歴任


はじめに
 2012年12月、民主党から自民党政権に代わり、再び日本では、小泉構造改革で強行された新自由主義・市場原理主義的な政策がとられつつある。 実は、この「新自由主義」というのは「悪魔のごとき思想」であり、このイデオロギーを具体的に実行していく経済的手法が「市場原理主義」である。
 なぜ「悪魔のごとき思想」かというと、「自由」という名の下で、国民の富を吸い上げ、社会や生活基盤を破壊していくものだからだ。新自由主義的な政策が進んだアメリカでは、「1%の人(悪魔)だけが富み、99%は貧困になる」という格差社会が生じている。
 それに加え、そこには日本の富を密かに狙う、アメリカの対日戦略も隠されている。アメリカは1994年から日本に「年次改革要望書」を送り、日本の社会経済体制をアメリカ型に変更するように要求してきた。 この新自由主義・市場原理主義 (グローバリズム)の理念をベースとして、日本の社会経済を破壊・停滞させ、成長を抑制させる。その結果、発生する余剰資金を海外へ流失させ、アメリカの国債や金融市場・商品市場に資金を供給させるわけである。

日本の新自由主義者一覧、「新自由主義」というのは「悪魔のごとき思想」であり、このイデオロギーを具体 的に実行していく経済的手法が「市場原理主義」である。 なぜ「悪魔のごとき思想」かというと、「自由」という名の下で、国民の富を吸い上げ、社会や生活基盤を破壊していくものだからだ。新自由主義的な政策が進んだアメリカでは、「1%の人(悪魔)だけが富、99%は貧困になる」という格差社会が生じている。竹中平蔵、グローバリスト、レントシーカー、新自由主義者、パソナ取締役会長、郵政民営化(対日年次要望書、日本の郵貯と簡保の米営化)、ロバート・ゼーリック、小泉純一郎、大阪維新、橋下徹、経団連、榊原定征

『そして、日本の富は略奪される アメリカが仕掛けた新自由主義の正体 菊池英博』

 さらにアメリカは、わずか4カ国で始まっていた地域内自由貿易協定を衣替えし、日本を標的とした大がかりな国際条約に組み替えてきた。それがTPPである。その内容には、日本に「関税の撤廃」「資本取引の完全自由化」 「規制の緩和・撤廃」を要求するだけでなく、アメリカの進出企業が絶対に有利になるよう仕組まれた「ISD条項」、 一度決めたらアメリカに不利になる改訂はできない「ラチェット条項」など、多くの不平等条項が盛り込まれている。
 すでに2013年初頭に、「日本政府がファンドを創設して米国債50兆円を購入することを検討している」というニュース(2013年1月14日付けブルームバーグ)が流れており、「1%の悪魔」に牽引されるアメリカが、政府ベースで日本の富を収奪する計画が表面化している。
 こうしたアメリカの要求を受け、それを実行していくのが、日本の中央政府の官僚と与党の政治家、野党でもアメリカの対日改革要求に賛成する政治家、新自由主義によって利益を得る大企業である。それに、大マスコミ(全国紙、NHK、民放)はほとんどが新自由主義・市場原理主義を礼賛する。さらに政府の審議会や諮問委員会に招かれる学者や識者には、多くの新自由主義者が加わり、国民を洗脳しようとしている。

竹中平蔵、「正規雇用が恵まれすぎている。正規が非正規を搾取する構造になっている。 正規と非正規の壁をなくさなければいけない」

『そして、日本の富は略奪される--アメリカが仕掛けた新自由主義の正体 菊池英博』 はじめに1

 本書では、すでにイギリスとアメリカの実験で答えが出ている新自由主義政策の実態を指摘し、1%の悪魔しか豊かになれない社会の危険性を指摘したい。さらに、デフレ解消と経済成長を取り戻そうと、自民党の経済政策が始まっているとはいえ、新自由主義的な政策では、日本は一段と弱体化し、国家破滅の危機に瀕することを解き明かす。
 こうした「悪魔の侵略」に対抗して、どのようにすれば日本を防衛できるのか――。それには、日本が新自由主義市場原理主義と決別して、日本の伝統を重んじる 「日本型資本主義の理念」を確立することであり、同時に対外純債権を296兆円(2012年末現在、すべて国民の個人預貯金が原資)も保有する世界一の金持ち国家として、その資金を日本国民のために使い、15年も継続する恐慌型デフレから脱却するための長期戦略を樹立し、経済成長を取り戻すことである。これが最大の財政基盤強化と財政再建の道であり、国家再興の出発点である。ここでは、その長期的な道筋を具体的に示していく。
 本書では数字的背景を明確にするために、図表を多く用いた。これらの図表は、政府と日本銀行、OECD(経済協力開発機構)などが発表している数字をベースに作成したものであり、ハッタリはまったくない。また、本書に書かれた情報には、インサイダー的なものはなく、いずれも公表されている情報を基に構成したものである。
 私は、一人でも多くの日本国民に、悪魔に犯される日米関係の正体を知っていただき、長い伝統と歴史を持つ日本を防衛するために尽力してほしいと願って、本書を執筆した次第である。
 2014年1月
  著者
『そして、日本の富は略奪される アメリカが仕掛けた新自由主義の正体 菊池英博』


『病むアメリカ、滅びゆく西洋 パトリック・J・ブキャナン』(フランクフルト学派 (トロイの木馬革命)、アメリカ上陸)
病むアメリカ、滅びゆく西洋 パトリック・J・ブキャナン
PSYCHO COUNTRY◆パトリック・J・ブキャナン著 宮崎哲弥監訳 病むアメリカ、滅びゆく西洋
これが世界の終わり方
これが世界の終わり方
これが世界の終わり方
劇的ではなく、情けなく終わる
     ―― T・S・エリオット『うつろな人間』

ふと思いついたように彼女は感傷的な笑みを浮かべ、
ヴィクトリア女王の戴冠式に仕えたという祖父の話をしはじめた。

「別世界の話だな」。彼は言った。

「別な文明よ」。彼女は訂正した。

「その文明のなかに私は生まれたの。
もう死んでしまったけれど――

消えたんじゃないわ、死んだのよ。生き物ですもの。
家族が基本の文明だったわ。
今は影も形もないけどね――

心安さも温かみもないばらばらの混沌社会。

もちろん、昔はすべてがよかったとは言わないわ。
無知と困窮の時代だった。

だけど、こんな無秩序ばらばらな世界にはすべきじゃなかった。
家族という土台をもっともっと大事にすべきだったのよ」

   ――ストーム・ジェイムソン『スティーヴン・ハインドの青春』1966年


クリントンとトランプの対決は、フランクフルト学派的なリベラルと、アンチ・リベラルの対決(社会主義の失敗による袋小路、キリスト教というナショナリズム、クリントンの理性とトランプの野生、社会主義を必然の理想とする人々、アメリカを描いた人々、「何も変わらない日本」への注目、日が上る地は、日出づる国)
社会主義を必然の理想とする人々

クリントンが見せていた理性とはいったい何でしょうか。これこそは、「世界は社会主義に至ることが理想にして必然だ」と考える人々の拠り所でした。理性をもって理論で考えれば、資本主義はいずれ行き詰まり、マルクス思想で言うところの労働者階級が蜂起し、社会主義革命に至るのです。
しかし、社会主義国家ソビエト連邦は自ら崩壊し、資本主義は行き詰まることなく、労働者階級が革命の主人公となることもありませんでした。
そこで、社会主義を理想とする理性は、革命の主人公を労働者階級から中間階級つまり一般人に変更しました。変更の根拠を担ったのは、マルクス主義の哲学者ルカーチ・ジェルジ(一八八五~一九七一)を創始者とし、社会主義のマックス・ホルクハイマー(一八九五~一九七三)、音楽批評家のテオドール・アドルノ(一九〇三~六九)、精神分析学者のエーリッヒ・フロム(一九〇〇~八〇)らを中心人物として戦後西洋のリベラル思想をけん引し、後続の思想家たちによって今もまたけん引し続けている「フランクフルト学派」と呼ばれる学者グループでした。
『日本人にリベラリズムは必要ない。「リベラル」という破壊思想 』(ベストセラーズ 二〇一七年)でも私が明らかにした通り、フランクフルト学派は、人間を、資本主義社会のもとで疎外され続けている存在だととらえます。人間は常に不満な状態にあると考えます。
マルクス主義は、貧しい労働者達が貧窮化の末に決起し、プロレタリアート革命が起こることを必然としていました。しかし、実際には、マルクス主義が描く労働者の決起などは起きませんでした。フランクフルト学派にとって、それは思想上の大きな痛手でした。
そこでフランクフルト学派は、傷のついたマルクス思想を裏に隠し、「人間は生まれながらに不幸である」とする精神分析学者ジークムント・フロイトの思想を持ち込んで、社会主義に至るために「一般の中間階級こそが革命を起こす主人公となるべきだ」という新しい方法論を再構築しました。一般人なら誰もが多かれ少なかれ感じるであろう疎外を排除した先にある自由、平等、人権を掲げるリベラリズムを種あるいは餌にして既存の社会に揺さぶりをかけ、社会変革へもっていこうという戦略です。
すなわちクリントンとトランプの対決は、フランクフルト学派的なリベラルと、アンチ・リベラルの対決でした。






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プロフィール

リベラルとは隠れマルクス主義者、フランクフルト学派(トロイの木馬革命)の批判理論(知識人向けのマルクス主義)を武器として使い日本を内部から破壊する文化マルクス主義者です。正体は暴力革命をあきらめたに過ぎない革命家です。通名在日朝鮮人と結託して、日本を弱体化している連中です。
共産党は、共産主義と名乗っているので共産主義者と分かりますが、リベラルは名乗りません。剥き出しの共産主義では社会への浸透力に弱いのです。
大学やメディア、法曹界を中心に文化マルキストが大勢居ます。勉強をして大学へ進み、東大など知識階級であるほど、マルクス主義(反日、自虐史観)になります。インテリを通じてその国の歴史や文化・伝統を破壊し、新しい価値を社会に刷り込んでいきます。
GHQが生み出した敗戦利得者とその系譜であり、日本を内外から弱体化している勢力(国難の正体)であり、支配層にも多くいます。(ソ連政府 各委員会に占めるユダヤ人の人数と比率)かつてのソ連は(ロシア革命により)アシュケナージ・ユダヤ人に支配されていました。現在の日本を支配、コントロールしているのは誰なのでしょうか?(帰化した政治家(在日韓国朝鮮人ほか)


男性の細胞の中には、Y染色体というものがあります。それは遺伝子DNAの格納庫のようなものです。
Y染色体の遺伝子情報は、父から息子へ、男系でのみ伝えられます。
日本人男性のY染色体には、中国人や韓国人にはほとんどみられない、非常に重要な特長があります。
それは日本人の40%近くに及ぶ人々のY染色体DNAには、「YAP」(ヤップ)と呼ばれる特殊な遺伝子配列があることです。


「……大金持ちの一団、彼らは西洋地域の政治、経済、社会の各方面で、きわめて大きな影響力を持つ。その一団が人知れず集まってたくらむことは、後にたまたま起きたかのように現実となる。」―――――英国 『タイムス』紙 1977年

「成長の過程でナショナリズムに染まった国民に再教育を施し、主権の一部を超国家機関に預けるという考え方になじませるのは、骨の折れることだ。」―――――ビルダーバーグの創設者、ベルンハルト殿下
『ビルダーバーグ倶楽部 世界を支配する陰のグローバル政府 ダニエル・エスチューリン』より)


「『資本主義と共産主義は敵対思想だ』という戦後の通説を根底から揺るがす…共産主義革命を推し進めていた勢力と、グローバル化という究極の資本主義を推し進めている勢力は同根である」(渡部昇一)
「現在の私たちを取り巻く国際環境の本質を理解するためには、これまで私たちの目から隠されてきた歴史の真実を明らかにする必要がある」(馬渕睦夫)
・米中はなぜ手を結ぶのか?
・なぜ歴史認識問題で敗北し続けるのか?
・なぜ米英ソ中が「連合国」だったのか?
・「国家は悪」「国境をなくせ」という思想戦
“ハイ・ファイナンス”の力を熟知しなければ、この国難は打開できない!
『日本の敵グローバリズムの正体 渡部昇一、馬渕睦夫』より)(著書一覧


グローバル主義者の文書では「人権」と「社会正義」の用語は暗号として使われ、自由の制限と国連による管理の強化という意味になります。

多くの政治的国際主義者は人々を怖がらせないように気を利かせて、世界政府という単語を使うことは絶対にしません。
代わりに“新国際秩序”とか“新世界秩序”という記号のような言葉を使います。
ニューワールドオーダー(NWO、新世界秩序(人間牧場))とは、別の言い方ではワンワールドであり、一般的にはグローバリゼーションと言われています。世界統一政府の樹立によって、国家の主権は奪われ、彼らの支配が完全支配になります。

国際主義(グローバリスト)は、「思想戦」と「経済戦」が柱なのです。双方とも、国家という枠組みを超越した戦争です。二十一世紀の共産主義(共産主義がグローバリズムに衣替え)とは、思想戦(左翼リベラル(批判理論による内部からの秩序破壊、分断工作))と経済戦(国家を含め障害になるすべてのものに対しマネーで決着をつけることになる新自由主義・市場原理主義)というグローバリズムであり、一部の特権階級による国家の民営化日本が売られるレントシーカー竹中)です。


Q -THE PLAN TO SAVE THE WORLD、世界救済計画、ケネディ、Qanon、Qアノン、トランプ大統領、NSA、ディープステート、カバール秘密結社、CIA、FBI、フェイクニュース、不正選挙、犯罪メディア、偽旗テロ、911、日本語字幕付
Q -THE PLAN TO SAVE THE WORLD①(世界救済計画、ケネディ、QAnon、Qアノン、トランプ大統領、NSA、ディープステート、カバール秘密結社、CIA、FBI、フェイクニュース、不正選挙、犯罪メディア、偽旗テロ、911、日本語字幕付き)

『裏政府カバールの崩壊⑨ 新しい世界の訪れ』 黄色いベスト運動、裏政府が怖れていたこと、Qチームの20年の計画、トランプのヒント、フィジーウォーターはネクシアム、赤いピルを飲む、メラニアのコート、ヒラリ
『裏政府カバールの崩壊』 今までの世界が終わるとき、ウサギの穴をたどっていく、外国人による侵略、小児性愛者がいっぱい、子供、アート、ピザゲート、大手マスコミの操作、魔女と魔術師、王と女王の他に、新しい世界の訪れ、王の到来


このブログに掲載のものは、ネット上にある(あった)もののコピペ(見にくい所は、画面拡大して下さい)になります。
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コロナウイルスの裏でほくそ笑むウォール街 (コロナ騒動、新型コロナは嘘、PCR検査、CT値、死因を問わずコロナ死、遺伝子ワクチンで死亡、ワクチン副反応、ウイルスは存在しない?)
『株式会社アメリカの日本解体計画 堤未果』 プロローグ 新型コロナウイルスの裏でほくそ笑むウォール街 (コロナ騒動、新型コロナは嘘、PCR検査、CT値、死因を問わずコロナ死、遺伝子ワクチンで死亡、ワクチン副反応、ウイルスは存在しない?)マスコミでは絶対、言えない「新型コロナウィルスの真実」に迫る!

『忘れてはいけない歴史記録 アメリカ不正選挙2020 船瀬俊介』) 参政党

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